【哲学】「境界」についての考察 #3
今回でこのシリーズも三回目である。読者諸氏においては、近年巷に流行している新型コロナウイルスに注意されたし。本題に入る。
第一章:人間は「境界」的存在である。
第二節:境界の性質および歴史性
さて前回、僕は「境界」の出現がすなわち世界と人間の出現であるということについて述べた。しかし、これは私の「境界」を語るうえで、ほんの氷山の一角に過ぎない。「境界」の重要性は、その歴史性と、「境界」自身の性質に基づいて語られるべきである。そこで、今回は「人間」が出現し、世界として成立して以降の「境界」を考察する。
言語の登場は、人類史において最も重要なことであるという点について異論を上げるものはまずいないだろう。そして、その次に重要なのは文字の出現である。歴史学の区分においても文字の出現以前の時代を「有史以前」ということにも、その重要性がうかがえる。歴史が始まったのは、すなわち文字によって記録することができるようになったからである。
文字による人間の発展を一言で表すならば、それはすなわち「生物的時間の技術的克服」である。これはSF的な、タイムマシンなどのことをいうのではない。これもまた例を挙げる。
あるところに一匹のサルがいたとする。そのサルは、大変利口であって、木のうろから蜜を取り出す方法を習得した。彼の群れの仲間は、こぞってそれをマネする。見様見真似の学習が功を奏し、やがてその群れは木の蜜を飲むことを覚えた。彼らは肥え、群れも強大化した。
しかし、あるとき獰猛な肉食動物がやってきて、この群れを襲い、立った一匹の赤ん坊のサルを除いて皆殺しにされてしまった。残った赤ん坊は、必死にえさを探し、どうにか食いつないで、やがて立派な大人のサルになった。
さて、かの赤ん坊は、群れが覚えた「文化」すなわち「木の蜜の集め方」を、彼の生きる時代を超えた過去から学ぶことは可能であるか。答えは言うまでもなく「ノー」である。
もちろん、これが生物学的進化にかかる時間を十分に経たうえでこの赤ん坊のサルが誕生したのだと仮定すれば話は変わってくる。しかし、そのような時間が与えられなかった状態で、彼=赤ん坊だったサルが、過去の一族が覚えた技術を、時間的に超えた状態で学ぶことはできないのである。
しかし、文字を持つサルは、これが可能になる。彼らの一族が、秘密の洞窟にこの方法を残せば、それは「過去の記憶」として受け継がれる。そもそものスタート地点が違うのである。生物としての変容までの時間を経ることなく、自分(この場合の赤ん坊)が誕生する以前に習得された技術を体得することができるのである。すなわち生物学的時間が、技術(文字による)的に克服されるのである。
さらに言えば、克服されるのは時間だけではない。この方法が記されたものを、まったく別の「文字を持つサル」が見れば、彼もまた、この技術を得ることが可能になる。きわめて非同期的な情報伝達が可能になるのである。
生物学的時間から解放された人類は、数万年の進化プロセスを経ることなく、時間的にはるか古くに生み出されたものを、非同期的に遺し、その結果、たった数千年で驚くべき発展を遂げたのである。
ここで「境界」の概念を導入する。言語⇒文字=境界の性質として、「非同期的な接続」が浮上するのである。これは、時間的な同一性を必要とすることなく、情報を保存するという、きわめて重要な働きである。
「境界」を超えるとき、それらは同期的にも、非同期的にも接続される。
何かが「境界」を超えるとき、非同期的に接続される例として、現代のSNSが上げられる。デジタルネットワークの発達は、高速な情報交換を実現したが、同時に「いつ」「だれでも」という、文字の出現時に起きた事象と全く同じことが実現したのである。しかも、今度は場所にすら制限がない。小さな「石板」をもって、彼ら自身がその文字を覗けばよいのである。それも、彼らが望む時間と、望む状況で実現されるのである。望みさえすれば、その場にいる目の前の相手と、リアルタイムに話をすること(同期的接続)もできる。
さて、境界の話に戻そう。生物学的時間を克服する手段をを手にした人間は、いよいよ彼らの生息域を全世界に散らばせた。彼らは新たな大地と新たな環境を知り、それらに名前を与えて「世界」の一部とした。世界は無限に広がり続けるように思われたはずだ。
しかし、ある時から世界は突如として、異常なまでに小さくなり始めた。彼らは一定の地域に定住することになったのである。定住は、細分化されて定義された世界を、さらに細分化することを促進した。
その好例が神話である。「何者かがつくった。さて、それは何者であるか」という、本能的知的欲求の表れである。彼らは世界が「世界」という枠の中にあることを把握(正確には創造したものなのだが、ここではそれが主体的に認知されていないという意味で把握という言葉を使用する)したのは良いのだが、その「世界」をまた別の言葉で定義することを求めたのである。
それらは「神」であり「英雄」であり「魔物」であり「魔法」であった。おそらく、先人たちがそうであったように、「文字」のような非同期性を持った超越的存在を、人間がいる「世界」と別の場所=別の世界に創造することで、「別世界の一部として定義された我々の世界」を生み出したのである。
「神話」の出現は、すなわち被造物、または創造者の存在する別世界の一部としての人間の「世界」という意識を作り出した。
ヨーロッパという地名が存在する。英語では「Europe」であるが、これは「ギリシア神話に登場する美しい娘であるエウロペ(またはエウロパ)が、白い牡牛に変身したゼウスに連れられて移動した地域」として定義されている。エウロペをラテン語表記したときに「Europa」になることを考えれば一目でわかる。
日本神話にしてみてもそうである。古代の日本人たちは目の前で起きる大陸からの寸断(すなわち、日本列島の形成である)を説明するために、イザナギ、イザナミによる「国造り」という神話を作り上げ、これによって被造物としての日本(=世界)を作り出したのである。
さて、ここまでは「世界」という境界が「文字」→「神話」という形で表出する過程について考察したわけであるが、ここから人間ははさらに市民生活を細分化していくのである。そうして、「人」と「人」に「間」が生まれ始めるということについて、今後詳しく見ていこう。