【短篇小説】死に場所を探していた。
死に場所を探していた。できれば君の隣がよかった。
そう考えたのは、これが初めてのことではない。ずっと前にも、同じことを考えた。君と出会う前に、半年ばかり付き合っていたある女の子のことだ。その時も、今も、僕は隣で死にたいと思っていた。暖かい日差しの差し込む縁側で、君のそばでこくり、こくりと居眠りをしたいと思っていた。そう思うことは、悪いことではないはずだった。
病院のベッドの上で目を覚ました時、第一声に君の声が聞こえなかったことで、僕は心中の失敗したことを知った。若い坊主頭の医者が、僕の瞳孔にペンライトを当てて、それをもって僕の意識が戻ったことを確信した様子だった。家族や、いとこや、大学の友人たちが僕のそばによって、何やら心配の声を投げるのだが、僕にはちっともだった。むしろ、彼らの言葉は文字通り右から左へ抜けていくばかりで、僕という空っぽの容器の中には、彼らの言葉の一滴とて残ることはなかったのだった。
療養の間、医者と訪問者たちは一言も僕の恋人のことを話さなかった。君は死んだのか、それともまだ生きているのか。体はどうにか生きているが、脳は死んでいるのか。それとも、意識はあっても、体はもう持ちそうにないのか。僕はせめて彼らの言葉からその手掛かりを知ろうと努力したが、答えは一向に返ってこなかった。ひょっとすると、君はもう死んだのかもしれない。そんな不安に侵されて、僕は先日から、横浜の景観のいいホテルに療養している。ここなら、まだ多少人間らしくいれる気がするのだ。
死に場所を探していたのは、君が生きているという確実な証拠が欲しかったからだ。その隣にいれば、あぁ、僕は死んでいいんだなと思える安心だった。死んでいい。それは究極の安心だった。そこであれば、いつ刃を手に取って、その刀身で首を切ることをもって、この物語に終止符を打ってもよいと思える。それが僕の中の恋の定義だった。
人間が生きているのは、きっとそういう死に場所を探すためなのだ。この世界のどこかにいる、「君」。その隣で、静かな眠りにつくことを求めているのだ。恋というのは、このような身勝手な考えを、いともたやすく受け入れる。発狂ではない。狂ったのではないのだ。
「毎朝、君のつくった味噌汁が食べたい」という言葉がある。これは素敵な言葉だ。でも、考えてみると、それは本質的に先ほど僕が言ったような「死に場所」を探しているのだ。君の作った味噌汁がどのような味であるかはこの際関係ない。本当に大事なのは、その繰り返しの先で、いつか、味噌汁が飲めない朝が来ることを予見させていることなのだ。朝はっと目を覚まして、何か、どうしようもない不安に駆られる。食卓にぼんやりと降りてきて、机の上にそれがないことに気づく日。あるいは、目を閉じて眠りについて、翌朝の食事をとらぬ不安。そのような終わりが来ることを、受け入れる。むしろ自ら望む。このような正の情動こそ、まさに「愛」なのだ。
いつか来る終わりのそばに君がいる。
その安心の大きさたるや、既知のものではない。