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【短篇】大人になると言うのは、いつでも死ねるようになるってことだ。

 生まれてから、インターネットが当たり前にある時代の僕にとって、世の中にあふれる膨大な数の言葉たちは、まるであらゆるものを破壊しつくした聖書の大洪水のようだった。僕にとって箱舟は、あふれかえった言葉の海を渡ろうとする、必死の抵抗だった。既存の表現、美しい言葉なんていう幻想に縋りつく、愚かな自称文学者の努力、というような意味ではない。むしろどちらかと言えば、もっと個人的な叫びである。僕が僕であるために必要な言葉が、たくさんの言葉の中にもまれ、希釈されて消えて行ってしまって、何も残らなくなってしまうかのように感じられる現実への抵抗だった。けれど、その抵抗が、現代社会への効果的な抵抗になるわけがなく、むしろもっと切実なもの、感情の高ぶりの一部でしかなかった。
 乗り込んだ始発電車の窓を通り過ぎていく景色は、住宅街だった。何か印象的なものがあるわけでも、特別な思いが沸き起こるわけでもない、ありふれた世界だった。それが、僕にとっての生きているこの世界そのもので、そこに外とか内とかなんていう概念はなかった。

「おい」

 声ではっとする。振り返りながらとっさに「すみません」と言ったが、そこに声の主はいなかった。その代わり、突然後ろを向いた僕に驚いたような表情をした通行人の女性が、おそらく自分ではないと気が付いて、恐る恐る視線をそらしながら、乗り換えの改札へ向かっていくのが見えた。
僕は自分の口をなぞった。剃り忘れた髭がざらざらとしていた。すみません、何が「すまない」のだろう。自分の口を母音の形に動かしながら、そのことを再現しようとした。「う、あ、あ、い」。少し前に見た、ゾンビがでてくる小説のワンシーンみたいだった。

 その映画のタイトルを、僕はもう覚えていない。
 だが、ストーリーは嫌にはっきりと覚えている。
 主人公であるゾンビは、人間だったころには美男子だった。ゾンビになっても理性を最後まで保っていた彼は、どうにかして、パンデミックの直前まで一緒に暮らしていた彼女を探し出し、その元へとたどり着く。しかし彼女は、「元彼氏」となったその死体に、シャベルを思い切りたたきつけ、そのまま頭の形が無くなるまでぐしゃぐしゃに踏みつぶした。痛みも苦しみも感じない男は、どうにかして彼女の方を一度見るのだが、彼女の隣には自分の知らない男がいた。男と女が走り出すのを、ミミズのように這って追いかけるシーンで、その映画は幕を閉じる。相手の男の顔も、自分の顔も消え失せて、ただ言葉だけが残る。オチの後味の悪さが、なんとも印象的だった。
 あの映画を見た帰り、僕は映画の意味について考え続け、目の前に映るあらゆるものの意味があるんじゃないかと思ったものだ。それは、世界が神のメッセージだと解釈する宗教者みたいな気持ちでもあって、ある種の狂気に近いところがあった。ゆえに、狂人はこの映画を理解することができなかった。何が「済まなかった」のか、結局僕も、その主人公も分からないままだった。

 意味がある。意味って何だろう。それは妄想とほとんど区別がつかない。狂人の戯言によく似た何かだ。何かが違うとすれば、それが理性で行われるかどうかというだけ。いや、違う。理性も狂気を夢見るのだ。かつてラヴクラフトがそうして神話を作り出したように。かつてあらゆる人々が未開であった時にそうであったように。世界の全ては意味の羅列によって記述され、一つの体系の元に整列し行進する軍隊となるのだ。パレードはいつまでも続き、目まぐるしく動く。カオスすらも取り込んだ、正夢のような夢。

気持ち悪い、お前

 フラッシュバック。悪意がラッパを鳴らした。膝蹴り。窓から落とされた机と椅子の、つんざくばかりの壊れる音。今度はお前だ。お前の命だ。お前の存在だ。そういわれる。パッと、誰かが背中を押せば終わるだけ。炎の前の紙切れ。敗者の遠吠え。盗人のぼろ布。静物画の中の死。

 全く突然、すべてを否定する過去の声が聞こえて、すぐに消えた。滝のように汗が額を流れている。心臓の鼓動が高まっているのをこらえる。うずくまって、僕は深呼吸をしようとした。あの日舐めた床の味を思い出した。上履きの底に仕込まれた画鋲を思い出した。僕は怖くなった。すれ違う電子看板の広告から、作られた笑みを浮かべているアニメキャラクターの視線を感じた。そこには嫌悪があった。これは僕の妄想か? 

 だが、神様は眠ったままだった。代わりに世界の全てが僕に無関心を代弁した。僕にとって神様なんて言うのは、積み上げるだけ積み上げて、気まぐれにすべてを破壊して、去るときは何とも思わない、積み木の城の主たる子供みたいなものだ。壊れて当たり前。崩れて当たり前。僕らが被造物なら、すべてその法則の下にある。僕も、香苗も、すれ違うサラリーマンも、いずれは皆死と踊る。

 見えたはずのもの全てが、景色に同化して輪郭を曖昧にすると、電車がホームを後にするのに気が付いた。おおむね、その視界という名前のキャンバスは灰色が七割を占めていた。残りは人々のため息と、どこかここでないかのような、漠然とした不安である。これが見えるのが死の前兆ならば、僕は文豪になれたかもしれない。
 死ぬのなんて怖くない。痛みだって一瞬だ。急行電車の風を感じながら、ついそう思った。途端に体が軽くなった。ああ、死ねるんじゃないか、って。僕はビルの上から飛び降りて、結局は死ねずに半身不随になり、ついには「死ぬ能力」すら奪われた植物人間たちについて考えた。人工呼吸器と点滴の向こうから、アナキン・スカイウォーカーのなれの果てのような、もの悲しい呼吸音さえ聞こえてきそうだった。そういえば、ダースベイダーは酒さえ飲めない体になっていた。忘却は人間の最後の楽園だが、忘却することのできぬ傷も、この世界にはあるのだ。

「大人になるっていうのは、いつでも死ねるようになるってことだ」

 ただ一人の親友が、かつて僕に言った言葉が頭の中に響いた。酒を飲みすぎたり、食べすぎたり、交通事故を起こしたり、あるいは、とてつもない災害に巻き込まれたりしたりして死ぬ人はたくさんいる。けれど、なんだか死にたいから死ぬ、ということができるのは、自分の命の手綱を握りしめることのできる大人だけだ。大人だけが、親のエゴとか、世間の義務から解放されて、自己責任と無関心のど真ん中に落ちていくことができる。だから、電光掲示板の自殺者の名前さえ、どうでもよくなるんだ。みんな耳をふさいで、聞こえてくるのは、誰が言ったのでもない誰かの言葉。自殺した子供はきっと、心が大人になってしまったんだろう。大人になりすぎた子供は、生死の境すらも一息で超えてしまうほどに、歳を取り過ぎている。

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