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龍之介
2024年2月26日 00:13
生まれてから、インターネットが当たり前にある時代の僕にとって、世の中にあふれる膨大な数の言葉たちは、まるであらゆるものを破壊しつくした聖書の大洪水のようだった。僕にとって箱舟は、あふれかえった言葉の海を渡ろうとする、必死の抵抗だった。既存の表現、美しい言葉なんていう幻想に縋りつく、愚かな自称文学者の努力、というような意味ではない。むしろどちらかと言えば、もっと個人的な叫びである。僕が僕であるため
2021年12月23日 11:52
かつて、神と呼ばれた子供たちがこの世界にはいた。彼らは、神として称えられ、その血肉を神の為に捧げられた。胎盤が剥がれ落ちる過程は、神から子供が「堕ちる」ものだと言われた。それゆえ、彼らの母親は、腹に宇宙を抱えていた。神話は人を形作る。神話が人の生まれを語るとき、人はそこに自らのアイデンティティを見出す。神と呼ばれた子供たちは、いつの日か神を称え、また子供を天から降ろし、神へと返すために
2021年12月12日 18:12
私が息を吸うと共に、私が神を流れ込ませる。すべては光となって闇に落ち、隠れていた物は明らかになる。私は一切の無なる有として、神の前にひれ伏し、ただその言葉をもって神の御前に跪かん。あぁ、我らが神”実存”よ。どうかその力をもって我らを導き給え。生きる意味とは、生きながらえることの本質なのか。それとも投企された一縷の細い糸なのか。縋ることでしか、この世という地獄から逃れ得ぬ、災厄なのか。あぁ、「
2021年12月9日 12:10
明け方の空のぼんやりとした風景は、落ちぶれた人生の一場面を切り取る時、最も効率的かつ容易に想像しうる不明瞭な臨界点を迎える。それは、午前2時に意味もなく入れたコーヒーのようであって、飲むか飲まないか、喉を潤すか潤さないかというよりは、むしろ自然に、それを必要としたから用意したというような雰囲気に満ちている。不明瞭な日々をどうやって切り取っても、それは焦点の合わないネガの現像のようであって、決し
2021年12月8日 16:25
生きている理由なんて分からない。傾きかけた生活は、斜陽のようであって、それでいてただひたすらに美しい。どんな世界の在り方だって、それそのものが特別であって、その中に溺れていることが何より幸せだった。日々も傾くのだ。太陽のように。いつの日か地平の向こうへ沈んでしまって、それっきり二度と戻ってこなくなることもある。そのことに気づくようになるまで、僕らは途方もない時間を必要とした。一度沈んでしまった
2020年6月10日 10:10
「どうしてこんなにも辛いのか」 見当もつかぬまま、意識と無意識の境界線をさまよい続け、はて、とうとう狂ってしまったのかと、自分の部屋をぐるりと見渡しながら、どこへ行くともなく一時間も歩き続けるというような日々が、しばらく続いていた。ここのところ、部屋から一歩も外へ出ることはない。北向きの窓からわずかに差し込む、不健康な日光の片鱗だけを頼りに、どうにか生きる希望を探し、彷徨うのであった。