はじめまして、龍舞詩音と申します。 北海道むかわ町出身ですが、自営業をしていた父が本州の会社に就職したため、転勤族になり、本州のあちこちを転々としていました。 小学校は7回くらい、中学は3回ぐらい転校しています。 高校に行くお金を親が持っていなかったため、自分で働いて通信制の高校を卒業しました。 20代、30代いろんなことがありましたが、結婚直後から次々病気をし、手術を数えきれないほどしています。 どの病気も嬉しくありませんが、全身火傷はやはり一番辛いですね。 見た目ですぐ
2008年10月8日に、父が心不全のため亡くなりました。70歳でした。 今日は17回忌ですが、私は実家から呼ばれていません。 何故なら、母と弟が仏教系の新興宗教の信者で、私はクリスチャンだからです。 父がいた頃の想い出は、良い物は何も思いつかない。 自分の気分次第で子供を可愛がったり虐待したり、子供の頃は毎日びくびくしながら暮らしていました。 姉は2歳からの記憶があります。 それは、私が生まれて、自営業も始めた頃で、イライラして姉を押し入れの上の段に置き、そこから突き落と
『苦汁と欠乏の中で 貧しくさすらったときのことを 決して忘れず、覚えているからこそ 私の魂は沈み込んでいても ふたたび心を励まし、 なお待ち望む』(新共同訳 哀歌3:19) 物語に綴った私の人生は、砂の一粒にすぎません。 もっといろいろなことが起きていました。 自分の年齢分、たくさんのことが起きていました。 それをすべて書くためには、生かされた年数と同じ年月を費やして書き続かなければならなくなるでしょう。 2007年、1年ちょっと遅れの挙式数日前に、夫が「イエスさま
この青年を、なんとか遠ざけなければ・・・ 未来のあるこの人を、巻き込まないようにするにはどうしたらいいのだろう・・・ 高速道路を使っても2時間弱はかかる距離を、よく通いつめてくれた。 それなのに、部屋に入れたことがない。 もともと、男性一人だけの場合はたとえ友人であっても決して部屋に入れない習慣を持っていた。 引越しと同時に婚姻届を出したが、その前日まで、決して部屋に入れなかった。 ご両親が荷物の運び出しを手伝ってくださることになっていたため、道案内のために、やっと部屋
暗闇から脱出後、約3ヶ月で生活に必要なものはすべて得ることができた。 トイレットペーパーやスポンジなどが買えるたびに、ひとつひとつ感謝した。 ・・・神さま、これを買うお金を備えてくださってありがとうございます・・・ ・・・病院代を備えてくださってありがとうございます・・・ ・・・今日も一日お守りくださって、安心して眠りにつけますことを感謝します・・・ 知らない街で、ひっそり野垂れ死にしていてもおかしくない状況の中で、”神の人”を備えてくださって生かされた命だ。 再婚した夫
「口座番号を教えてください」 メールには、そう書いてあった。 どう受け止めていいのかわからなかった。 この人は誰だろう? 恐る恐る返信で問い合わせてみた。 2004年に持ったHPに詩を掲載していた。その私の詩の読者の方からだった。 メールフォームを備えていたので、メールが届いたのだ。 神学校に入学したことはHPに書いていた。私生活については世間話程度にとどめていたつもりが、異変を感じ取って、クリスチャンであるその人がメールをくださったのだ。 借金をしたことがない。返済する
2000年から2005年の春まで、事がスムーズに運ばれているような錯覚を覚えていた。 体もだいぶ回復し、フルタイムのお仕事ができるようになって、ようやく自力で生計を立てることができるようになった。 知り合った友人の教会で、月1回、礼拝の手話通訳をする機会に恵まれた。 それは、お相手のろう者の方がお引越しをされるまでの約2年半続いた。 その教会から、「使わなくなったものだから」と、パソコン一式をプレゼントされた。 ありがたくいただき、生まれて初めてネットを使い始めた。 HPを
電話が鳴った。 教会のお兄さんからだった。 「まだ連絡が行っていないと思うので・・・。今、H先生が天に召されました。」 受話器を握り締めたまま、呆然としていた。 ほんの5日前にお見舞いに行ったばかりだった。 癌に侵され、入院した時にはもう手のつけようがなかった。 意識不明の中、B先生、3人の委員、牧師夫人、そして特別に連れて行っていただいた私が、病床での最後の聖餐式にあずかっていた。 牧師夫人とB先生がご配慮してくださって、H先生と私を二人きりにしてくださった。 意識不明の
1999年6月。 離婚合意から3ヶ月が経とうとしていた。 「離婚したら娘に会わせてやる」との約束を、私はまだ信じきっていた。 なのに・・・音沙汰なし・・・。 公衆電話に向かった。 元夫の実家に電話した。 「あんた、誰だ!?」 そう言って、電話は切れた。 受話器を握り締めたまま、その場に崩れ落ちた。 真っ暗闇に、ぼんやり浮かんでは消える断片的な映像 母が次々と何か言っている 怒っているようだ なぁに? 何て言ったの? どうしてそんなに怖い顔をしているの・・・? 今は朝な
最後に娘を抱きしめたのは、いつだったろう・・・。 1997年秋に緊急入院した日は、ちょうど娘の6歳のお誕生日だった。 それより数ヶ月前から、すでに夫は娘を連れて実家に居ついたまま帰ってこなかった。 私が最後に娘を見たのは、星も出ていない夜だった。 夫に足早に連れて行かれ、振り返り、振り返り、「ママ、バイバイーイ♪ ママ、バイバーイ♪」と幼い声がいつまでも暗闇にこだましていた。 「お前が病弱なせいで昇進できない。お前のせいで俺の人生狂わされた。」 「7年もガマンしてやったんだ
自分の抱えている問題について、誰にも何も相談したことはなかった。 離婚の行く末も生活状態も回復見込みのない体も、すべて自分で背負い込んでいた。 自分の置かれている状況を伝える「声」が喪失状態にあったから。 重荷を負って、ボロボロの体を引きずって、『みことばに聴きに行く』ことが、私が出来る精一杯のことだった。 1999年2月。 私以外の人は、皆声を合わせて賛美歌を歌い、主の祈りを捧げていた。 私はくちびるだけ動かしていた。 ・・・一緒に自分の声で歌ってみたいな・・・ ふと、
日曜日に教会に行ってみた。 玄関先で話しかけられたが、私は返事をすることが出来なかった。 あ者だからだ。 筆談用のメモ帳を取り出そうとしたら、別の方がすぐさま席に案内してくださった。 20年も教会へ通う日を待ち続けていたのだから、本当なら喜びでいっぱいのはずが・・・激しい恐怖に襲われていた。 当然のごとく、男性がいたからだ。 全内蔵機能低下するほどに激しい暴力を受けた私にとって、男性がそこにいるというだけで脂汗が噴出す。心臓の鼓動が激しく乱れる。 どんなに優しい言葉をかけ
クリスマスの海から生還して、気がついたら新しい年を迎えていた。 1999年1月のある朝、突然「教会に行かなければ!」と思った。 なぜそう思ったのかは、未だにわからない。 ある看板が浮かんだ。 強制別居を強いられてからまもなく、ある教会の前を通りかかったことがある。 黄色い看板に教会名が書かれてあるのが印象的だった。 その看板を見た日から、ちょうど1年が経っていた。 ・・・あそこに行って、洗礼を授けてもらおう!・・・ こどもの時に、何の本かわからないまま手に取り、読んだ聖
家庭の崩壊は誰の責任か? 相手か自分か、周りの圧力か? 強制されて、結婚したのではない。 「この人と、生涯共に生きる」という意志を持って結婚したのに。 なぜ、心がすれ違う? どこで、ボタンの掛け違えが起きたのか? わが子を守らなければ。 殺伐としたこの家庭から、わが子を守らなければ。 夫婦が心を合わせて、ちゃんと向き合わなければ。 何度、そう思い、何度、家に帰って来ない夫をその実家に迎えに行っただろう。 相手の心がこちらに向いていなければ、どうしようもない。 この家庭に心
「生きるのも死ぬのも、親・きょうだいを巻き込むな」という家訓(?)はすでに実行されていました。 誰も頼れる人がいなかったので、完全にイエスさまにしがみつくことが出来ました。 同じ年の子達が中学の卒業式に出ているころ、私は中学を除籍になりました。 小卒で、どうやって生きていけばいいのでしょう? 除籍直後、中卒認定試験があるのがわかって、さっそく受験。そして合格。 県立の通信制過程に進学しました。 月2回のスクーリング。全教科レポート提出。4年制。やってのけちゃいました。やるし
否定的な言葉や拒絶的な態度をとり続けられると、人は心が萎縮してしまいます。 大人でさえ回復に時間がかかるのなら、こどもならどうでしょう? 自分が自分で在ることを受け入れられるようになるまで、気の遠くなるような年月が必要です。 だから、決して否定的な言葉や拒絶的な態度をとってはいけません。 中学生になるのが楽しみでした。 中学生になれば環境が変わる。 もう、「異常者」とか、「まともじゃない」というような罵声を浴びせられなくて済む。 新しくやり直せる。 本当に楽しみでした。