一音句跨りとその効用

保たれたソーシャルディスタンスのあひに音なき溜め息のゆふまぐれ

という歌を詠んだ。


 またぞろ一音句跨がりムーヴメントが来てしまったようで。用いたい技法は周期的に変化する傾向がある。他人様の実作研究用に解説しておくと、保たれた/ソーシャルディスタン/スのあひに/音なき溜めい/きのゆふまぐれ──ということで、二句から三句、四句から結句にかけて言葉が一音だけ後ろの句に喰い込んでいます。

これを私はごく個人的に一音句跨がりと呼んでいます。なぜそう呼ぶのか。

従来、戦後前衛短歌における句跨がりは二音以上で語を後ろに食い込ませるケースが多かった。今更引くのも憚られるが、塚本邦雄詠うところの「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」「聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火藥庫」といった跨り方が前衛期の定石だった。

掲出歌は、革命歌作詞家に/凭りかかられて/少しづつ/液化してゆくピアノ、という意味の切れ目を持つが、31音の短歌定型としては、革命歌/作詞家に凭り/かかられて/少しづつ液化/してゆくピアノ、という切れ方を伝統によって背負わされている。ここではその伝統的な一句ごとに文節を持っていた従来の和歌の在り方が破壊され、更新されている。

もともと句の切れ目と意味の切れ目が齟齬なく一致していた古典和歌だが、塚本のような歌では句の切れ目に従い切って読むことがかえってぎこちなく不自然なものになる。その効用としてはに語に圧力をかけることにより歌の世界を深めるというか、向こう岸の意味を持たせるとか、そういった効用があるだろう。これは塚本流の名詞の遣い方や、いわゆる暗喩を始めとした象徴的発想あってのことだとも思うが。


句跨がりも技法として市民権を得てしまった。内容がポスト前衛短歌的に読まれがちということもあり、下火になった気配もなくはない。いま、我々の時代の短歌として堂園昌彦が『やがて秋茄子へと到る』という歌集に収録した歌に、

本屋へと届く秋日は店番の少女のそばかすを多くして

寒くなる季節の中で目を開けてかすかな風景を把握する

揉め事をひとつ収めて昼過ぎのねじれたドーナツを買いに行く

といった下の句における一音の句跨がりが頻出している。

新世代の技法というべきだろう。事実、現代歌人としての私はこの歌集を紛れもない聖典として扱っている。この歌集の影響から詠み出だした詠歌の何と多いことか。また、二音の句跨がりについても前衛期のそれとは随分と様相が異なっており、

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

といったものがある。歌集の題となった歌だろうと推察されるこの歌は、「どうして死ぬんだ/ろう僕たちは」という風に助動詞を句跨がりによって後ろに喰い込ませている。これは現代語ならではの神業といっていい。古語の助動詞は概ね二音であり、なかなかこうはいかない。似たようなことをしようにも、一応は同じ三音である願望の助動詞「まほし」などを持ち出したのでは音も心地よくならない上に意味が強調されすぎてどぎついものになってしまう。ところが「だろう」という助動詞ではその意味のせいか異様に柔らかく意味が反響しているように思われる。付属語のなかでも助動詞は特にこのような柔軟な運用に耐えるような文脈を備えていないようだ。

要するに、やはり現代語の短歌を否定することも私にはもはや不可能だということで、包摂統合されてゆくのが最も歌にとって肥沃な在り方なのだろうと思う。キメラ文体などと批判されることも少なくない古語と現代語の混淆などもそのひとつの現れなのだと推察する。

もともとこのような句跨がりの技法は俳句、というより俳諧の時代から採り入れられており、転がっている情報によればシェイクスピアなども効果的に使っていたようだ。短歌の方法を拡張するという意味合いにおいては、近代短歌にしても長大な字余りの破調や漢語の濫用などはあった。

つまり、和歌だけがそういった方法拡張の潮流から取り残されていたことになる。ここで一度だけ話を裏返してみよう。

 和歌はいたずらに取り残されていたのかどうか。自らを形骸化してまで頑なに和歌が守ろうとしていたものは何だったのか。墨守によって保たれていた美意識が、秩序があったのではないか。我々は方法意識の拡張に目を眩ませるあまり、歌の根幹を見失ってはいないか。歌詠みの端くれとして、それを見極めるまでは古めかしい和歌も捨てるに忍びない、ということだ。俚諺にもいう。腐っても鯛と。

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