承認欲求の異常発現
承認欲求の異常発現(私の造語です)は、幼少期に受けた保護者の教育と深い関係があるように思います。
私は承認欲求には自己承認と他者承認があると考えていてます。
自己承認は自分の身体を一つにまとめて使えることを実感することで満たされるので躾の影響をもろ受けます。他者承認は愛情によって満たされのではないかと思います。
躾というと、今は虐待と同義語に貶められてしまいましたが、本来は違ったはずです。
国立歴史民族博物館教授の松木武彦氏が、著書の中で「美の起源」について「原始の人たちが、少ない情報を組み合わせることで生き延びることに成功した時に、脳が報酬として快感ホルモンを出したのが美の起源である」というようなことを語っていました。
700万年前に直立二足歩行に移行して人類となった猿たちは、他の動物たちのように、自然状態で全力発揮する身体をなくしてしまい、直立二足歩行という不自然を克服し、生き延びるために様々な工夫をしてきたのだろうと思います。直立二足歩行の生物にとって、倒れるということは死を意味することになり、「まっすぐ立つ」ということが我々の価値観の基本に形成されてきたことは想像に難くありません。
美とは「まっすぐ」という感覚であり、その感覚を身のうちに育てる教育法を躾という文化にまで高めてきたのが、我が国の先人たちだったと思います。この「躾」で育まれた感覚は、健全な自己肯定感として、そしてそれは柔軟性・機敏性として働き、日本人の生存確立を高めてきました。
そういえば、昔、古武術の先生が「人間は倒れまいとする本能が強いのです。老人が転んで複雑な骨折してしまう時は、倒れまいとして無理な動作を行ってしまうことが原因です。全ての武術の技は、この倒れまいとする人間の本能を利用して成り立っています」と言っていましたが、なるほどという感じです。
直立二足歩行の人間にとっては、倒れる=死なんですね。「真っ直ぐ立てない」という感覚が無意識に存在すると漠然とした不安をいつも抱えることになってしまいます。
そして幼い子供にとっては、保護者からの愛情というのも重要です。親が自分に関心を持ち続けてくれないと生命の危険にさらされることになります。
躾と愛情が不足すると承認欲求の異常発現を引き起こすのではというのが私の見立てです。
この「承認欲求異常発現者」が政治家になったりすると悲惨なことになります。
それは論理的な議論を成立させることが難しくなるからです。
論理的思考というのは「何々だから何々」という構造が基本になっていると思いますが、最初の「何々」の設定が、思い込みだったり、検証不能の事案だったりすると「話にならない」ということが多発します。
そもそも議論は自分の考えを押し通すことでなく、前提となる「何々」に対する認識を新たにすることで、結論としての「何々」をより良くしていくためにあると思うのだけど、「承認欲求異常発現者としての政治家」はそれが出来ない。
議論の目的が、より良い政策立案ではなく承認欲求にあるのでは疑わざるを得ない場面が多発してますよね。
私は正しくて、あなたが間違っている。
私は善で、あなたは悪。
私は正義で、あなたは不正義。
私は分かっていて、あなたは分かっていない。
私は素晴らしくて、あなたは最悪。
etc...
そして自己承認がきちんと出来ていない人間は、いくら注目を浴びても承認欲求が収まらない。
餓鬼のように。
自己承認は躾=身体教育で培われた全集注出来る身体だけに発現するので、これが出来ないと、動物として全力発揮することが出来ないという不安を常に持つことになり、「あたまはいいんだろうけど何だかね」という人になってしまう。
躾が成功すると自分の直感を修正できる身体を手に入れることが出来て、「へえ、そういうことなんだ!」「あら誤解してましたすみません!」「なるほどそういうこともあるますよね!」という感じに、自分の直感がもたらした印象や思考を変えることが出来ない人間は、もう一度自分を躾け直す必要があると思います。
というわけで、自分を躾け直すための本を執筆中でございます。
まずは電子書籍で販売予定ですので、奮ってご購入お願いします(笑)
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