伊吹
昨日、普段あまり出かけないところに観劇に出る用事があったので、ついでに吉祥寺で降りて少しウインドウショッピングをするなどした。お腹も空いているしどこかで何か食べようかなと駅前をふらふらしていていて目に入ったのは、『伊吹いりこ出汁 いぶきうどん』の看板だった。僕は驚いた。
伊吹というのは伊吹島という島のことで、僕の故郷である香川県の小さな町の海の向かいにある小さな島。うどんだしなどにもよく使われる『いりこ(カタクチイワシを煮て干したもの)』の名産地である。まさか東京で伊吹島だなんて名前にお目にかかるだなんて思ってもみなかった。せっかくなので入ってみることにした。
奥に小さなテーブルはあるが、基本的には立ち食いスタイルの狭い店だった。時間はお昼どきを過ぎていたが店内は混みあっていた。日曜の吉祥寺だというのもあったのだろう。ネギと天かすはご自由にお取りくださいという半セルフスタイル。とり天かけうどんはごろっと太くてコシのある麺と揚げたての柔らかいとり天で旨かった。
吉祥寺もそこそこ来たことがある街だがこんなお店があるなんて今まで知らなかった。思わず店員さんに、「僕、伊吹島のある市の出身なんですよ!」なんて声を掛けてみようかとも思ったが、別に伊吹島に縁もゆかりもないだろうバイト君が突然そんなことを言われても愛想笑いを返されて終わるに決まっている。黙ってうどんをすすって汁まで飲んで店を出た。
伊吹島と言えば……と、小さい頃うちの親父が聞かせてくれた話を思い出した。「お父さんが高校生ぐらいの頃はな、夏になると港から飛び込んでそのまま伊吹まで泳いで行って、いりこの水揚げのバイトをしよったもんや」まだ小さかった僕はへーそうなんだすごいなと思ってうんうんと聞いたものだが、今思うとあれは本当の話だったのだろうか?海を泳いでバイトに行く?いくら昔でもそんなことあるか?調べてみると伊吹島は港から10キロぐらいらしい。10キロ……ギリギリ泳いで行けないこともない距離ではあるが、それにしても泳いで通っていただなんてのは普通に考えたらおかしな話だ。いくら穏やかな瀬戸内海とは言えサメでも出たらどうするんだ?あれは親父のボケだったのではないか?「いやいや伊吹まで泳いで行くなんていくら何でもおかしいやろ!」とツッコミを入れるべきだったのではないか?「港から飛び込んでそのまま伊吹島まで泳いで行っていりこの水揚げのバイトをしていた」は、ボケなのだとしたまあまあ面白いじゃないか。幼い僕は親父の渾身のボケを潰してしまったのではないか?
「はいどうもー、植野家ですーよろしくお願いしますー」
「植野家ということでね、父と息子のコンビでやらせてもらってます」
「そうなんですよ」
「うえのけなんてコンビ名ですけどね、息子は上の毛が薄くなっててすみませんね」
「いや父親に薄毛いじられるの複雑やからやめてよ」
「まあそんなん言うてますけどね。やっぱり子どもの頃って懐かしいなと思うんですよ」
「そうですねー」
「伊吹島ってあったやろ?」
「あー、伊吹島っていうのはうちの地元の町の沖合い10キロぐらいの所にある小さな島で、いりこの名産地なんですよね」
「よく知ってるでしょ?息子はWikipedia全部暗記してるんですよ」
「天才か。そんな暗記力あったらもうちょっと何とかなってるわ」
「お父さんが高校生の頃はな、伊吹島でいりこの水揚げのバイトをしてたんや」
「あー、時代ですねぇ。船で通ってたんや」
「いや違う。港から飛び込んで、そのまま泳いで通ってた」
「おかしいやろ!10キロやで!」
「お父さん体力あったのよ。柔道やってたから」
「柔道すご!いやいや、サメとか出たらどうするん?」
「大丈夫大丈夫。柔道やってたから」
「柔道最強神話!?いやもうええわ」
「どうもありがとうございましたー」
今度父と話す機会があったら事の真相を聞いてみようと思う。
追記:Wikipediaによると伊吹のいりこは煮干し界の最高峰とされ、車で言うならロールスロイスに匹敵する最高品質のブランド煮干しと言われているらしい。すごい。