鯖の小骨
昨日の夜に食べた鯖の塩焼きの小骨が喉に刺さったままで、今日のデートはずっと気持ちが乗らなかった。なんとなく不機嫌でどことなく会話も上の空だったのはそのせいだ。だから帰り際に別れましょうと切り出されたのには大いに異議を唱えさせてもらった。しかし俺の異議は通らず、俺たちの恋人関係は今日で解消ということになった。
こういう日に限ってどうしてこんなに寒いのだろう。格好付けてお気に入りの薄手のコートで出てきた朝の自分を呪いながら、背中を丸めて帰った。くそ忌々しい。どうしてたった一日デートで不機嫌だったくらいで別れようだなんて言い出しやがったんだ。好きだよとか愛してるとか言い合ったあの言葉は嘘だったのか。そりゃあ俺にだって他にも欠点はあったろう。でもそれはお互い様じゃないか。お互いの欠点も含めて好きだとか愛してるとか言うものなんじゃないのか。そうして欠点も直していったりしながら成長していくものなんじゃないのか。それがなんだ。喉の奥に刺さったままの鯖の小骨が俺をイラつかせる。もういい。そんな女だとは思わなかった。見損なった。別れようを言い出したのはそっちかもしれないが、こっちだってお前みたいな女は願い下げだ。道路の段差につまづいて、クソがと悪態をつく。
ごちゃごちゃと入り混じった負の感情とともに、俺は小さな部屋に帰宅した。リビングの真ん中のテーブルの上にピンクにかわいくラッピングされたプレゼントが置いてある。そうだった。こないだ何でもない日に貰ったニット帽のお礼にと、ちょっとした菓子を用意していたのだった。いつものパターンでデートのあとに彼女が部屋に来たタイミングで渡すつもりだったのだ。まさか振られて1人で帰ってくるだなんて思いもしなかった。俺は座椅子にどっかりと座ると、かわいいラッピングを乱暴に剥ぎ取る。イタリアの何とかという有名なメーカーの砂糖菓子だ。安い駄菓子のようにボリボリと貪り食ってやりながらウイスキーを呷った。あぁ俺はアイツに振られちまったんだなぁ。馬鹿みたいにガブ飲みした酒にカッとなった頭の芯は逆に嘘みたいに冷静になって、俺はフラれたという現実をしみじみと噛み締めた。
もしも喉に小骨が刺さっていなくて楽しいデートになっていたなら、俺はフラれずに済んだのだろうか。それともそれは単なるきっかけで、俺がフラれるのは時間の問題だったのだろうか。おそらくそれは後者なのだろう。これから鯖の塩焼きを食うたびに彼女のことを思い出すのかと思うと憂鬱だったが、こんな気持ちも時間が経つにつれて段々と薄れて忘れていくものなのだということも知っている。そんな風にそのうち忘れてしまうことも寂しくて悲しくて憂鬱なものだが、憂鬱を忘れてしまうことが憂鬱だというのもおかしな話だ。ウイスキーの回った頭でぐるぐるとそんなことを考えながら自嘲した。
洗面所の鏡の前でバカみたいに大口を開けて小一時間格闘して、ようやく鯖の小骨が取れた。こうやって取ってみればなんてことはない、5ミリもないような小さな小骨だった。お前のせいで俺は彼女にフラれたんだぞと悪態をついてそのまま排水口に流してやった。まだ喉には違和感があるが、これも一晩寝て起きたら何ともなくなっているだろう。彼女にフラれた違和感も同じように朝起きたら何ともなくなっていて欲しいものだが、残念ながらそれは期待出来そうにない。鯖の小骨のようにチクリと刺さったまま、しばらく俺を悩ませたりイラつかせたり憂鬱にさせたりするのだろう。それもまた恋愛の醍醐味だと思って味わうことにしよう。