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オトコが書いた、“ザ(ジ?)・オンナ”

9月になったと思ったら、もう間もなく中旬に入る。1年の残りが少なくなるに従って、時間が過ぎるスピードも速くなっていく感覚だ。


先月、僕が純真舞台さんに書き下ろした朗読用の新作戯曲について、出演者の1人からこんな発言があったと聞いた。

「私がやる役は、“ザ(ジ?)・オンナ”って感じ。この中でどの役がやりたいかっていったら、この役です」

とても光栄な言葉をいただいたが、“ザ(ジ?)・オンナ”の役を書いたのは、男の僕である。本当に、僕は「オンナ」を書けているのだろうか。


そんなことを自分に問う前に、自分が書いた作品を見てみれば、殆どが女性を主体にしたものだ。外部からの依頼で、男性を主人公にすることはあるが、自分で書く時は、大抵男性が準主役、女性が主役である。何故なのかと考えてみると、どうやら僕は、女性の考え方や行動原理に親和性がありそうなのだ。「保邑リュウジ」などという些か男っぽい名を名乗っておいてなんだが、僕は男の(本来は「男一般」「女一般」というものはないのだが、それでもジェンダー的な傾向というものはあるだろう)考え方が分からない、または、分かっても賛同できないことが多い。

かといって、僕は所謂「トランスジェンダー」とは違うし、今春に脚本を提供したとある朗読公演主催者がそうである「男の娘」とも違う。性自認に関しては、まったくのノーマル、こういう言い方をすると語弊があるが、マジョリティ(多数派)に属する。ただ、これが正しい認識かは分からないが、「脳」は女性に近い。だから、生み出す登場人物は殆どが女性なのだ。


「男」が「女」を書くと、ついて回る批判は、「男の目から見た女」というものだ。実は僕も、数年前にある朗読劇の脚本で、ネットで知り合ったとある女性から、同じ批判を受けたことがある。その人は、それきり僕の脚本の舞台や朗読公演を見に来てはくれなくなった。それ程、腹に据えかねたのだろう。僕自身はそういう意図はなかったが、知らず知らずのうちに、自分の中のジェンダーバイアスが働いてしまっていたのかも知れない。

これを境に、僕は一切女性が主体の作品を書かなくなった…、といえば潔いのだが、僕はそれ以降も、女性主体の作品を作り続けている。1つ思い当たることがあるとすれば、僕は昔からずっと女性に振られっぱなしだった。逆に、「女心が分からないの?」という場面に出くわしたこともある。そんなわけで、女性という生き物は、僕にとってはずっと謎のままだ。だから、掘り下げていろいろ考えもするし、本やネット等で情報も集めるし、実際の女性を、こっそり、穴が空くほど観察したりもする。その成果が、多くの女性の登場人物となって結実しているのではないだろうか。幸い、それ以降も、その人を除いて「こんな女はいない」と言う女性からの批判に直面したことはない。(面と向かって言えないだけかも知れないが。)


先に触れた、9月17日に予定されている純真舞台さんの朗読公演の脚本も、オール女性キャストで行われる。そのうちの登場人物の1人が“ザ(ジ?)・オンナ”であるらしい。本当にそうなのか、どの辺がそうなのか、是非会場で確かめていただきたいものである。書いた本人も、どの辺がそうなのか、実は分かっていない。何しろ、自然に湧いて出てきた人物なのだ。なので、僕も密かに会場で確かめることにしたい。

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