25.Fラン大学不用論に反論する(第4弾:最終)Fラン大学の真実の存在意義
1. Fラン大学不用論の根っこに昭和の価値観
ネットを見れば例えばyou tube のwakatte.TVのようなFラン大学を揶揄する言説があふれている。50万登録者数を誇る人気動画、「Fラン大学就職チャネル」も内容的にはFラン就活生に刺さるだろうが実際の視聴者の大半は関係ない人たちだ。見る方は自分より下に叩ける存在を作って留飲を下げ、辛い現実を忘れようとしているのだろう(真に受けて実際のFラン大学生が自信を失ってしまうのも困るのだが)。
あの池上彰も「入試問題が全然解けなくても受かるような低レベルの大学、定員割れの大学は淘汰して私学助成金を他に使う。一方で今、専門学校が専門職大学としてどんどん大学化されている。勉強が苦手であっても、美的センスがあったり手先が器用だったり、そうした長所を生かした専門職を目指す人たちが学位を取るという選択肢がある」(東洋経済ネットより筆者要約)というようなことを言っている。
このようなFラン大学不用論は日本の受験偏差値による大学の序列化、その先にある新卒一括採用、終身雇用と年功序列、つまりいい大学を出ていい会社に入り定年まで勤めることが幸せという、根強く残る昭和の価値観を背景としている。受験生も保護者も中高の教員もそのことを前提にして大学を考える。しかし固定化されたその認識は正しいのだろうか。変わらないと思われていた日本社会も今、大きく変わろうとしているのに。
2. ホワイトカラー消滅
冨山和彦はその著書『ホワイトカラー消滅~私たちは働き方をどう変えるべきか』(NHK出版新書2024.10)で以下のように述べている。少し長いが引用する。
「まずは「日本的経営モデル」からの脱却が欠かせない。日本的経営は、新卒一括採用、終身年功制で集められた同質的かつ固定されたメンバーで仕事をするゲームである。終身雇用・同一賃金体系・年功序列の日本的経営モデルでは、機動力と瞬発力が発揮できない。そもそも高付加価値を享受できる領域は移ろい続けるため、全く同じゲームを続けるわけにはいかない‥略・・組織そのものの新陳代謝も欠かせない。新しいゲームに対応すべく常に必要な人材を新しく受け入れ、組織の多様性を担保するための新陳代謝が必要となる」(同書47p)。
一方冨山は大学に対して次のように言う。
「高等教育は一部の本気でグローバル競争に挑む人材を鍛え、排出する少数の大学または学部と、圧倒的多数の人材を育む高等技能教育を行う大学に分かれていくべきである。漫然とホワイトカラー予備軍を大量生産する昭和な大学モデルには一刻も早く別れを告げるべきである」(同書141p)。
なぜ冨山がこのように言うのか、それはローカル産業における中堅・中小企業の付加価値生産性を上げることが日本経済にとって不可欠で、そのためにはホワイトカラーを「アドバンスト・エッセンシャルワーカー」に格上げする必要があると考えているからである。「アドバンスト・エッセンシャルワーカー」は池上がいうような「手に職付けた職人」ではない。「本質的には技能職的、プロフェッショナル的な世界であり、それゆえに流動性も高くなるし、技術進化が続く中でその技能、プロフェッショナリティも更新を続けなければならない」(同書139p)としてイメージにパイロット、医師などを挙げているがそれだけでなくホワイトカラーの領域も同じような変化が起きている、としている。
そのような人材を養成する大学ではどのような教育が必要なのだろうか。冨山はリベラルアーツが重要だと言う。冨山のいうリベラルアーツとは、蘊蓄的教養のことではなく「よりよく生きるための知的技能」である。その基礎は「言語的技能・技法」であり、応用は基礎の上に建つ「自由技能」すなわち思考の抽象化、実践的知性である(浅薄な問題解決力やクリティカル・シンキングではない)。
ここで思い出すのは筆者が最初に赴任したFラン大学で当時学長だった加藤寛先生がおっしゃっていたことだ。彼は大学教育において「3言語」が重要であると説いた。3言語とは自然言語、コンピューター言語、会計言語のことである。自然言語とは日本語と外国語のことである。コンピューター言語とはプログラミングのことでコンピューターを動かす。会計言語とは簿記のことで財務の数値を記述する。この3つは冨山のいう「言語的技能・技法」に相当するのだが、20年以上前から加藤寛先生はこれからの大学教育において3言語の重要性を説き、教員に対してその実践を求めていたのである。
3. 時代を先取りしているFラン大学
もしFラン大学がGMARCHや日東駒専のような大規模大学(漫然とホワイトカラー予備軍を養成していると思われる)の縮小版劣化コピーなら、存在意義はないだろう。しかし多くのFラン大学は目の前の学生の置かれた状況に向き合っているがゆえに、変わらざるを得ないし、また冨山のいうような高等技能教育を行う大学に変わりつつある。それは地方経済のグローバル化、高付加価値化を担う人材ニーズに応えることで必然的にそうなるのである。
例えば筆者の前任校(地方の私立大学、学部によってあるいは年度によってBFになることもある)には4つの学部がある。薬学部は薬剤師の養成、医療保険学部は臨床検査技師、臨床工学技士、理学療法士を養成している。これらは冨山の言うアドバンスト・エッセンシャルワーカーである。国際コミュニケーション学部は自然言語としての英語と中国語の2か国語教育を行いさらに異文化コミュニケーションのスキルを身に着ける。経済経営学部はデータサイエンス・AI教育プログラムと簿記・会計のスキルの修得が中心となる。
各学部の学びの根底に共通するのは「学び方を学ぶ」というようなメタ認知スキルをより重視することであり、そのためにさまざまな教育方法を検討し、効果的な授業設計を支援することを通じて、学生の成長を達成しようとする役割を担う高等教育推進センターという組織がある。授業開発を行うこのような組織が存在するのは、変わりつつあるFラン大学に共通する特徴である。
4.意味のないFラン大学要不要の議論、それはそれとして必要な学問とは何か
冨山の言うような「ホワイトカラー消滅」の時代にFラン大学が不要か必要かという議論は意味をなさない。そもそも偏差値による大学のランク付けそのものが意味をなさないのである。Fランだろうがなかろうが、変われない大学は淘汰されるだろう。
このような言い方をすると、役に立たない学問は不要なのか、と飛躍して疑義を呈する向きもあるかもしれない。
まず第一に自然科学はもとより哲学、文学、歴史学、芸術学など人文科学の研究は、人類の知の地平の拡張として無条件に必要であり、それは種としての人類のアイデンティティに関わるものである。第二に、本気でグローバル競争に挑む人材にとっては、シェイクスピアや世阿弥を語ることはグローバルなコミュニケーションの上で必須である。蘊蓄的教養は世界のエリートの共通言語である。第三に、冨山はリベラルアーツ応用編について次のように述べている。「インプットには古典がおすすめである。本でも映画でも演劇でもコミックでも、古今東西、古典として残っているものには、人間と人間社会が抱える本質的、普遍的な苦悩や業が描かれてうるからだ。これこそが我々があらかじめ正解を持てない世界なのである・・略・・これが実践的知性を鍛えることになる」(前掲書201p)。スティーブ・ジョブスはなぜ鈴木大拙のZen and Japanese Culture を読んでいたのか、ということである。
以上Fラン大学不用論に反論する、という題で一通り記事を書いてきた。このシリーズはこれで終りとするが、ご意見があればコメント欄にお願いしたい。