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秋田に眠る未完のプロジェクト

古人の求めしところを求めよ。

「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ。」
旅は、みな未完のプロジェクトかもしれない。
私には、この芭蕉の言葉を思い出さずにはいられない或る風景がある。芭蕉が奥の細道の旅で訪れた最北の地、かつて松島と並び賞された景勝地象潟である。
私は、この象潟の風景に惹かれ、何度も訪れた。
 芭蕉が能因法師を慕い歌枕の地として訪れた頃、ここは鳥海山を背景に美しい島々が浮かぶ静かな海の入江であった。芭蕉は、漁師の小舟で小さな島々を巡りながら、何を思ったのだろうか。しかし、今は、その風景を見ることはできない。
文化1年(1804年)の地震によって土地が隆起し、田圃の中に島々が浮かぶ景観に変わってしまったからだ。
 私は、この海の記憶を伝える風景の中を、松の老木や島々と対話しながら歩く時間が好きだ。時は過ぎ風景も移ろい、古人の跡は大きく変わった。しかし、私には古人が求めしものは、今もここにあると感じる。
 古人が求めしもの。それは、今も続く未完のプロジェクトとして、ここにあるのではないか。

伝説の湖との出会い。

 私が象潟に何度も足を運ぶことができたのは、2004年から始まった八郎潟流域での授業のお陰だ。秋田県に毎月授業に通っていた合間に、私はたびたび象潟を訪れることができた。
 八郎潟は、象潟の約80十キロ北にある。もし、芭蕉が八郎潟まで足を伸ばしていたら、その雄大な風景を目にしてどのような句を残しただろうか。
象潟と同様に、八郎潟の景観も時代の流れと共に大きく変化した。大きな龍、八郎太郎の伝説を伝える潟は戦後干拓され、今はその大半が広大な水田地帯になった。象潟のような天変地異ではなく、人がもたらした近代化という出来事によって、かつての湖面は広大な田んぼ(大潟村)に変わった。
 私は、この田んぼが広がるかつての潟に立ち、いつも思う。「古人の求めしところを求める」とは、ここでは何を意味するのかと。ここにも古人の未完のプロジェクトがあったのではないか。それは、この風景の中にも、きっと眠っているに違いないと、稲の波を眺めながら伝説の湖に想いを馳せた。

 八郎潟流域の小学校では、生き物とお話しする方法や、生き物と相談するまちづくりの学習を行ってきた。これまでに、授業を行った小学校は二十校以上、生徒は延べ一万人を越えた。秋田県の小学生は、さすがは学力日本一、学習に向き合う姿勢や理解力は素晴らしい。それに、感性豊かなことも達との対話は、創造的でいつも楽しい。ただ、気になることがひとつある。

忘れられた龍。

 小学校では八郎潟をテーマにした授業を行うこともある。その時はまず、黒板に龍の大きな絵を描いてから話し始める。私が黒板いっぱいに龍の絵を描き始めると、教室は大騒ぎになる。
 ところが、子どもたちの方に振り返り、この龍の名前を知っている?と質問をしてみると、急に静かになって、ドラゴンとか龍とかいう言葉が返って来る。ほとんどの生徒が八郎潟の伝説の龍の八郎太郎を知らないので驚く。龍の名前を知らないのだから、地元に伝わる民話八郎太郎物語もほとんどが知らない。以前、宮古島で龍のお話をした時に、島の小学生が八郎太郎物語を知っていたのに驚いたことがあったが、ご当地の小学生が知らないと聞いた時には、もっと驚いた。


 何もこれは秋田県だけの話ではない。私は全国各地の学校で授業を行ってきたが、どこも状況は似たり寄ったりだ。地元の自然や文化についての知識を持たない子ども達に出会うことは、決して稀ではない。確かに、学力を身に付けることは大切だが、子ども達がその中で育つ郷土の自然や文化について深く知ることもなく、そのまま大人になってしまっていいのだろうか。いつから、こんなことになってしまったのか、考えさせられる。

求めしところを知らずに去っていく若者たち。

 地方に行くと何処でも、若者の流出や高齢化、人口減少の話を耳にする。しかし、それらの地域で子ども達と接していると、それも当然かなと思うことが多い。自分達が日々暮らす地元の自然や文化に関心を持つ余裕もなく、学校や塾、スポーツクラブに通い、ゲームやアイドルに熱中し成長した若者達が、地域から都会に行ってしまい、帰って来なくなるのは当然かもしれない。とにかく、今の子どもたちは忙しすぎる。大人たちが、ぼーっとする時間を子ども達から奪っていないか。
 それではいけないと、最近は子ども達に地元の自然や文化を体験させる取り組みも、各地で始まっている。だが、時々体験させればいいという感覚であれば、たとえ自然に恵まれた地方であっても、都会の意識と大差が無いかもしれない。実際、都会と田舎両方の子ども達と接していると、家族旅行やハイキングなどで自然と接する機会が多いのは、都会の子ども達のように感じることがある。自然や生き物の知識が豊富な子どもは都会の方が多い。しかし、それらの経験や知識が、子ども達の日々の暮らしとの繋がっているかというと話はまったく別だ。


 体験は、子ども達の日々の暮らしとは関係の無い特別なものである限り、生きた体験にはならないと思う。では、生きた体験とはどのようなものなのか。
私は先の芭蕉の言葉「古人の求めしところを求めよ」にヒントがあると考えている。地域の歴史や文化を学ぶといっても「古人の跡」を求めて歩くだけでは、知識を得るだけの体験で終わってしまう。だが、そこにも、必ず「古人の求めしところ」が眠っているはずだ。人が地域と深く関わろうとすれば、埋もれていた未完のプロジェクトの存在に気づくことができる。それらには、未完であるからこその意味がある。
 子どもや若者は古人の心に触れることで、ひとりひとりの生きる体験(魂の旅)を始めるのではないか。魂の旅人になることで、子ども達や若者たちの地域への思いは深まるに違いない。

秋田の老農が残した未完のプロジェクト。

 秋田県の人達には、是非思い出してもらいたい百年以上前のプロジェクトがある。その未完のプロジェクトは、ある資料庫の片隅で今も眠っている。それは、明治の老農といわれた石川理紀之助による適産調である。適産調は、八郎潟周辺から始まった地域資源の発掘プロジェクトだ。理紀之助は、若者達を引き連れ、秋田県内はもとより東北各地の貧しい村々へ自ら足を運び、詳細な調査を行った。それぞれの地域に潜在する資源や可能性を地元の人々と共に掘り起こし、人々に持続可能な地域への取り組みを促した。
 石川理紀之助の資料館に展示されている適産調一行の当時の写真を見ると、今の中学生くらいの少年の姿もある。理紀之助は、夜毎若者を集めて勉強会を開き、時には東京から地質学や土壌学の専門家を講師に招いて学習会も行った。これから適産調に向かう若者たちの姿から、当時の熱気が伝わってくる。

「井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ」

 理紀之助が残した有名な言葉に「井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ」がある。始めたら最後まで諦めずにやり抜けといった格言として知られているが、この言葉の奥には、理紀之助のより強く深い信念があるように思える。彼が人々に「水の湧くまで掘れ」と言えたのは、「誰の足元にも、どの土地にも、必ず可能性が眠っている」という揺るぎない確信があったからではないか。
 それは、単なる思い込みや願望といったものではない。科学的な探究心と土地土地に眠る「古人の求めしところ」を感じる研ぎ澄まされた感性によって、それぞれの現場から直に得ていったものだ。適産調は現代の私達から見ると実にユニークな形でまとめられている。彼は調査に行った先々で多くの和歌を詠んでいるが、適産調には地質図等と一緒にそれらの和歌やエッセイも掲載されている。


 もし今このような地域調査を行ったら、その調査報告書に調査中に思い浮かんだ和歌やエッセイなどが書き込まれることなどあり得ないだろう。環境分野をはじめ、現代社会では人々の専門家への依存心が強い。今の社会では、なんでも専門家から助言や指導を受けようとする傾向が強い。科学的な客観性が重視されるあまり、個人個人の思いや感想は主観的だとして排除される。
 江戸時代に各地で書かれた農書や理紀之助の適産調も、科学的な視点と個人個人の心情が切り離されていない。それらでは、多様な分野を総合化する場としての個々の人格が重視されている。だから、専門家の助言や指導を受けても、人々は主体性を失わず生きた体験を持続できたのだ。人々が主体的であれば、地域を見失うことはない。
 仮に適産調が現代普通に行われている調査のようなものであったら、理紀之助の名言も生まれて来ることは無かっただろう。

こども適産調が始まった。

 ただ残念なことに、この先駆的なプロジェクトによって収集された膨大な資料は、いま倉庫の片隅で山のように積まれたまま眠っている。しかし、理紀之助は適産調要録の中で「いつかその価値を理解する人々が現れ、適産調が生かされる時が来る」と述べている。「古人の求めしところ」を求め生きていた彼だからこそ、抱くことができた確信だったのだろう。
 そして、本当にその日はやって来た。いま八郎潟流域の小学校では、子ども達による適産調が行われ始めている。地域の課題に取り組む総合学習の中で、子どもたちが理紀之助の適産調の存在を知り、その後継者になろうとする取り組みが始まったのだ。
 私と一緒に、生き物と相談する街づくりの学習をして来た子どもたちは、すぐに理紀之助の適産調の意味を理解してくれた。生き物との対話を通してこれまで気づくことが無かった様々な繋がりや多様性を発見し、かつての環境を学ぶことで古人の暮らしや思いや願いに想いを馳せてきた子ども達には、自分たちの学習が適産調に繋がっていることがすぐに理解できたのだろう。実は、自分たちは理紀之助たちの後継者だったんだ!と気付いた途端、生徒達の顔にはみるみると誇りが漲った。
 それは、子どもたちが「古人が求めしところ」を求めていたことに気づいた瞬間でもあった。

未完のプロジェクトを引き継ぐ子ども達。

 その土地の古人が残した未完のプロジェクトを引き継ぐことができた時、人はその土地で生きる意味や豊かさを見出すことができるのではないか。
地域の課題の解決には、地域に暮らす人々がまず、その地域に生きる価値や意味を見出すことから始めなければならないと思う。そのためには、成功事例を参考にした問題解決型の取り組みから、地元資源を生かす価値創造型の取り組みへの発想転換が不可欠だ。
 環境問題への取り組みも、価値創造的な地域づくりと一体のものとして捉える発想が必要になる。だから、他の地域で成功したとされる手法を探したり、モデルとして地元に導入しようとする前に、まず地元に眠る古人の求めしところに、想いを馳せてみてはどうだろうか。専門家の意見を聞くことも大切だが、古人の声も聴き逃さないでいてもらいたい。
 そうすれば、その土地に潜在していた価値や意味が、空間的時間的な繋がりをとおして現れて来るからだ。そして、それらの価値や意味を掘り起こす営みそのものが、未完のプロジェクトとなって過去から未来へと永遠に引き継がれていくのだと思う。                                 (2016年からは、NPO法人草木谷を守る会によるリキノスケ未来塾が開催され、こども適産調が行われている。)

思いや願いは完結しない。

 未完のプロジェクトが引き継がれていくことで、地域は持続していく。人々が抱いた思いや願いが完結することは決して無いからだ。それらは、永遠に未完であり続けるはずだ。
 これから秋田の各地で全国各地で「こども適産調」が始まれば、将来それぞれの地域で地域資源を生かした新たな事業や産業が興きてくるかもしれない。そして、地域から全国へ世界へと発信する若者達が次々と現れて来るかもしれない。私は、そのような未来を夢みて、今日も全国各地の学校に行って授業をしている。
古人の求めしところを求める未完の旅を続けながら。
 未完のプロジェクト「適産調」は、未来の秋田の人々へと引き継がれていくことを願い、今も暗い倉庫の片隅でその時を待っている。
                            2014年5月22日

                                飯島 博

       

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