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草むらとボルネオ

ボルネオ、マレーシア・サバ州から昨日帰ってきた。現地でのことを書きたいところだが、その前に、帰ってきた今の気持ちを書いておきたいと思う。

ボルネオにいたのは約6日間。あまりに多くの命が、数えきれず果てしない物語を織りなす中で、人もまたそこに住まうと共に、ある時その物語の流れを無機質に断ち切っては、それを後悔して償おうとしたり、後世に物語を託したりする。あるいはその時間の伐採を続けようという動きもありながら、隙間ではそれでも命たちが息をし、語りを続けている。善悪の彼岸とも呼ぶのが良いか、四角い画面とばかりつながった口からは語ることのできない光景がそこにはあった。

そんな日々を経て、日本へ戻り、自宅の最寄りの駅を降りた。

改札を出、階段を降り、家路を歩く。ボルネオのようにサルが木を揺らすこともなければ、電灯に巨大なカブトムシが飛来することもない。ヤモリの数も控えめで、川岸はワニの心配もない。

けれども、街路樹にはムクドリが群がり、忙しなく情報交換をしている。少しずつ秋の糸がたなびき始めた空気には、リンリン、チッチと虫たちが音符を並べる。朝になれば、蝶だって太陽の下を舞うだろう。

ここにだって、無数の命の物語がある。無数の規模ではボルネオのそれに敵わないかもしれないが、そのひとつひとつは、ボルネオのひとつひとつと同様、熱く、強く、愛おしい。

数の多少で表すのは簡単だ。けれど、数の表現はその命の本質である物語を隠す。今ここにある物語に気づかず、あるいはないものとし、あれやこれやと乾いた音がする言葉を連ねる。そうして実のない約束をしては、物語を断ち切ることをなかなかやめられない。

コンクリートの脇に生える草を見ると、いつだってカナヘビがいはしないかとそれを軽く蹴り、足音に耳を澄ました少年は、夢に見ていた熱帯雨林へ行った。その土地では目の前の時間を少しも溢さずに受け止めるので必死だった。最寄りの駅に帰ってきてやっと、彼がその夢の中に存在していた時間が思い出話としてその事実をしっとりと口ずさみ始めた。

そしていつだって探したくなる。ひとつ物語が見つかると、無数の物語が気になり始めて、追いかけて日が暮れる。草むらとボルネオは、実は地続きだったのだ。

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