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【幼児教育】解釈を超えたもの
子どもたちと過ごしていると、自分の想像を超えてくることが多々ある。
例えば絵の具遊びをしていて画用紙を用意しても、手や足に筆で色を塗り始めることがある。
ただこれはまだまだ想像の範囲内。そこからさらに、足に直接絵の具をかけたり、絵の具の入った容器に足を入れたりしたことがある。
こういったとき「あ、想像を超えてきた」となる。
しかし、これはその時の想像を超えていても、解釈の範囲内ではある。
「筆で色を付けるのでは足りないほど、もっと色を付けたいと思ったのかな」、「足に伝わる感覚を他にも試したかったのかな」などというように。
子どもの行動をある程度分析して、子どもの気持ちや心の動きを推し量ったりできることも多い。
しかし、今日は自分の解釈を超えることが起きた。
しかも2回。
1回目。
絵の具遊び。
室内でシートを広げ、その上にソースを入れるようなボトルに入れた水溶き絵の具を用意する。
早速発泡トレーやプラスチックカップに絵の具を入れて色水遊びが始まる。そのうちトレーの水をシートにわざとこぼす。そしてそれに素足をひたす。
これはまだ想定内だし解釈内。
そうこうしているうちに水道で水を汲んできて、それをカップに入れる。それもカップからあふれるほどに入れる。これはちょっと想定外。でも解釈内。アイスの紙箱に水を汲んでいる子もいる。これはなかなか想定外だけど、十分解釈内。
しかし、カップの水をしきりに別のカップに移し、また絵の具を足し、水を足し、こぼし、別の容器に移し、かき混ぜ、元のカップに戻し、また別のカップに移し・・・
となってきた。
ここで私の解釈の外に出た。
彼らの目はまっすぐ。忙しささえ感じられる。
一面灰色の海である。その中に素足で座り込み、灰色の海水を注いでは移しをしている。
膨大なエネルギー量を前に、私は取りつかれたような笑いが出た。
2回目
ゲストの先生が来て、音や身体表現で遊ぶ時間があった。
給食後の活動。
「いっぽんでんしゃ」になって並び、保育室を出た。
階段を降りてホールに着く。
すると数人が走り回りだした。
そうなるともうみんな走り出す。
これは以前にもあったことであったが、今日は少し想定外だった。
しかし解釈内ではあった。数十秒間は。
あれ、止まらない?
ずっと走る。走る。走る。
ゲストの先生に子どもたちが大好きな曲をピアノで弾いてもらう。
私も歌う。
走る走る。まだ走る。
ここで私の解釈の外を出た。
私は怖かった。子どもたちがどこか知らない人のように思われた。
走っている子どもたちは笑っていたが、あの笑いは何だったのか。
今は家でこれらについて考えている。
この2つの出来事は、同じ「解釈を超えた」と表現したが、方向性が全く異なっていると思う。
1回目は夢中の果てに超えた。深く重い、海の底のイメージ。
2回目は、解放か、あるいは戸惑いや迷走のようにも思えた。軽くつかみどころのない、泡のイメージ。
保育的には、1回目は子どもにとって意義がある時間のように思われる一方で、2回目は危機感や恐怖さえ感じられた。
1回目
絵の具。これまでの実験の記憶。水の感覚。素材の存在。素材の形。水道への距離。室温。先生の期待。色の変化。水の音。なくなることと増えること。
2回目
無人のホール。給食後の時間。外遊びに行けなかったこと。他クラスの観察。友だちの存在。「ハレ」の時間。導入の不足。3月。進級直前。身体を動かした記憶。その時の楽しさ。
取り巻く要素を並べながら、解釈しようとする。言葉に収めようとする。
欲望?
辿り着いた言葉。
一方では満たされながら潜り続け、他方では渇きのあまり宙を舞う。
突破?
もう一つの言葉。
一方では時間を、もう一方では空間を。
もし子どもたちから時計を外したら、どうなるのだろう?
飽きとは一体何だろう?
もし子どもたちを果てしない原っぱに解き放ったら、どうなるのだろう?
満足とは一体何だろう?
何かを掴み取ろうとしていた。
それだけが私が解釈できたこと。
そしてまた明日と会う。
明日の私は何ができるのだろう。