幽霊執事の家カフェ推理 第五話・逃亡のバーチ・ディ・ダーマ1
アラームで時間ぴったりに目覚め、秋庭倫巳は気持ちよく身を起こした。今朝はベッドに未練がない。
遮光カーテンを開けると薄い光が差しこんできた。冬の朝は遅く、弱い。
快適な季節だ。
電気ケトルでお湯を沸かしておき、手っ取り早くシャワーを浴びる。頭からバスタオルをかぶってざっと乾かしていると、タイミングよく沸騰した。
Tシャツを着て、フレンチプレスでコーヒーを淹れる。抽出している間にドライヤーを使う。いつもの流れだ。
店ではオーナーが直火式で作るエスプレッソベースのドリンクがメインだし、自分のスイーツにはそれが断然合う。
オーナーが作るトルタ・カプレーゼやカタラーナの濃厚さにも、エスプレッソがベストチョイスだ。だが目覚めの一杯には、いわゆる「普通のコーヒー」も、まろやかで悪くない。
立ったままそれを飲んでいると、スマホが柔らかい音を立てた。この時間なら多分オーナーだろう。会社員の友人たちは、とっくに仕事を始めている。
案の定、画面には彼女の名前でメッセージ通知が出ていた。
「来るとき、菅原さんのとこで追加の卵買ってきてくれる?トモのトルタ・パラディーゾ、好評で消費激しいー!」
文面を見て、フニャッとした笑みがもれた。
倫巳は、店ではトモと呼ばれている。「ともみ」なのだから略さなくてもいい気がするが、海外生活からの習慣なのか女性っぽく聞こえることへの配慮か、オーナーはいつもこの愛称を使う。
その呼ばれ方は嫌いじゃない。倫巳も、彼女のことはエムと呼んでいた。
名前が江美里だからだ。
倫巳は細身のパンツを履くと、クローゼットを開けた。着なくなった服たちが並んでいる。いい加減捨てようかと思うのだが、「保留」のまま今に至る。
鮮やかなストライプのシャツに合わせてジャケットを選んだ。店からはシャツだけでも良いといわれているのだが、手を抜きたくはなかった。
コンタクトレンズを入れて、度なし眼鏡をかける。手早くカップや器具を洗ってから、倫巳は部屋を出た。
あとはいつもの公園を通って澄んだ空気を浴びれば、戦闘準備完了だ。
塔子は例のイタリアンカフェに来ていた。今日は麻美と大志も一緒だった。麻美はここを気に入っていて、塔子とともに常連になりつつある。
大志はまったくの別ルートで、この店に出会っていた。
彼もカフェをやっているから、塔子としては他店に誘うのをためらっていたのだが、たまたま来たときに、カウンター席にどかっと座った彼を見かけた。聞けば前々からこの店は、大志のハチミツを仕入れているらしい。
塔子が遭遇したとき、すでにオーナーの江美里と大志は完全に打ち 解けていた。むしろ塔子と江美里も、大志を介してより親交を深めたといっていい。
今までは、お互いを尊重する一定の距離があったように思うが、それがかなり縮まった気がする。
それと、もう一人。
倫巳がカプチーノを三つ運んできた。ソーサーを置くときは真顔だったのに、サービスの焼き菓子を置くときだけフニャッと笑った。
麻美は嬉しそうに笑顔を返した。
倫巳は会釈すると、次の瞬間スッと笑みを消して去った。
「前から思ってたけど、あの人かっこいいよね」
麻美は、さっさとカウンターに入ってしまった倫巳を目で追いながら言った。
塔子はなるほどと思いながら、つられてカウンターを見た。確かに女性受けする人かもしれない。スポーツタイプとは対照的で、文系というかマイルドなインドア派。まさにこういうカフェが似合う。
ややエリートっぽい雰囲気もあるが、垂れ目とミルクチョコレート色のくせ毛が、眼鏡で冷たくなりがちな印象を和らげていた。
しかし大志は苦笑いを浮かべ、
「そうかあ?」
と反論した。
「えー、なんでよ。いいじゃない、知的でガツガツしてなくて」
品があるし、と麻美は大志にちらりと視線を投げた。あなたは真逆だと言いたげな、おどけた笑みが可愛らしい。
大志は鼻を鳴らした。
「何かヒョロいし、気取ってていやだね。頭いい、できるキャラみたいに作ってる感が」
「あー、大志くんはできなさそうだもんね。そういうの」
塔子はサックリ笑って、この言い合いに決着をつけた。
だが確かに、あの店員は喋らない。スイーツを出すときもフニャッと微笑むだけだ。メニューを間違えられたことはないし、別にいいのだが。
冷静というかおとなしいというのか、オーナーがジョークを言っても、口元だけで笑うのを見たことがある。
「あ、でもほら、こういうのもあの人が作ってるんだよ」
麻美は焼き菓子を手に取った。
「しかも、すごいおいしいの」
口に入れ、感嘆とともに噛む。その様子から本当に美味が伝わってきて、塔子たちも手を伸ばした。
この店では、飲み物を頼むとバーチ・ディ・ダーマが添えられてくる。
倫巳が来てから始まったサービスだが、好評だった。
スイーツを注文するほどではないけれど、小腹がすいたというときに嬉しい。焼き菓子を目当てに来るファンも多いという。
「お、ほんとだ。これすげえうまい」
大志も素直に唸って、二つめに手を出した。
バーチ・ディ・ダーマは、アーモンド生地のクッキーでチョコレートを挟んだイタリアの一口菓子だ。見た目もかわいらしく、口の中で繊細に崩れるが、マカロンとはまた違う。
塔子はカプチーノの柔らかな泡を吸ってから、バーチ・ディ・ダーマを口に運んだ。これだけで値段をつければいいのにと思えるくらい、おいしい。
むしろ、焼き菓子として売ってほしいと思った。あとで江美里に訊いてみよう。
ふと、一人の客が目についた。一人で来る男性も最近は珍しくないが、気になったのはそのせいではなかった。
その客の食べ方が異様だったのだ。悪いが、気持ち悪いレベルだと塔子は思った。
男はだらしなく肘をつき、イタリア語会話と書かれたテキスト本を広げていた。バーチ・ディ・ダーマを一つ横向きにつまむと、据わった目でしばらく眺める。
それから彼は、クッキーの間からはみ出たチョコレートをなぞるように舐めまわした。その後、クッキー部分もしつこくねぶっている。
作り方の研究でもしているのだろうか。それにしても気味が悪い。
江美里もカウンターの中から、こわばった顔で男を見ていた。大切な作品にいたずらされたような気持ちなのかもしれない。食べ方は自由とはいえ、塔子にもその不快さは理解できた。
当の男は彼女と目が合っても、不敵とさえいえる態度でバーチ・ ディ・ダーマに口をつけ続けた。舐めながら、今度は倫巳を目で追う。
そうして食べ終わると太った体を揺らし、ガタガタと席を立った。赤いジャンパーの裾が、バサリとテーブルを引きずる。
塔子はその粗暴な動きから目をそらしながら、サクッと食べた方が美味しいのにと思った。
家に帰る頃にはすでに陽が落ちていた。本屋に寄ったとはいえ、冬の夜は早い。
塔子がドアを開けると、当然ながら今日もリュウがピシッと立っていた。
「お帰りなさいませ、塔子さま」
その言葉にも、今はもう違和感は覚えない。
リュウはなぜか執事として塔子に仕えている。もちろん、塔子が頼んだわけでは決してない。
理由もきっかけもわからないが、なぜか塔子が意を決して買った小さな城に最初から「いる」のである。ローンとともに。
彼の生前と、このマンションとの関わりは不明だった。そもそも新築なので、あるとは思えない。かといって、過去にこの土地で何かがあったという話も聞いたことはない。塔子自身も敢えて追求はしていなかった。
リュウが塔子に対して姿を現すと、当然ほかの人にも見えてしまう。そのため行動範囲が家の中に限られており、それを一応の共同生活(と呼べるのかは微妙なところだが)のルールとしていた。
だが塔子は、リュウが姿を消して外に逐一ついて来ている(本人は警護と主張している)ことは知っていた。
彼は外でのできごとをあらかじめ把握していて、食事のたびに話題にするからだ。
今日のメニューはエビとアボカドのミルフィーユ仕立てに、豚肉のカスレ。レモンを振ったアボカドにクリームチーズとエビを重ねた前菜は、残り物料理とは思えない豪華さだ。ミルで出したばかりの胡椒が、まろやかな味のアクセントになる。
塔子は辛口のスパークリングワインと一緒に、その絶妙な調和を堪能した。
カスレは時間をかけて煮込んだらしく、豚肉がふんわり柔らかい。肉の旨みを豆がふっくらと吸っていて、塔子は思わず声をもらした。それでいて崩れずに、ちゃんと優しい歯ごたえが残っている。
リュウはカスレを出す少し前のタイミングで、ラングドックのワインを出してくれた。塔子の好みや飲む間隔を理解している。できる執事だ。
このワインは少し前にコンビニで買っておいたものだが、充分にコクがある。家で気軽に飲むなら、こういうものが最高だ。
塔子が惜しみなく褒めると、リュウは丁寧にお辞儀をした。
「昼間は、あのイタリアンカフェにお出かけと存じましたので、少しスパイスの効いたお料理にいたしました」
「あ、やっぱり来てたのね」
わきまえた行動をとってくれることはわかったので、塔子はもうリュウを振り切ることは諦めていた。
「は。あのお店は大変勉強になります。本日出ていた焼き菓子、見事でございました」
「ああ、あれおいしかったよね」
パッと顔を輝かせてから、塔子はリュウは何も食べられないのだと気がついた。ごめんと呟きながら、江美里にテイクアウトできないのか訊き忘れたことを思い出す。
「・・・イタリアのお菓子なんでしょ?最近あの店員が来てから、品数増えたんだよね。ほら、麻美さんがかっこいいって言ってた人」
塔子の言葉に、リュウはなんとも言えない複雑な表情を浮かべた。それから、黙って食後のお茶を用意した。
やきもちなのだろうか。塔子が褒めたわけでもないのだし、まさかそれはないだろう。塔子は首をひねりながら、カップが出てくるのを待った。
カフェインレスのコーヒーを持ってきたときには、もうリュウはいつもの笑顔を浮かべていた。
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