幽霊執事の家カフェ推理 第五話・逃亡のバーチ・ディ・ダーマ6
空振りに終わる可能性も高いが、塔子(とリュウ)は江美里と公園に来た。カフェに集合したとき、お互いに何となく黒い服を着てきたのを見て、やる気満々だねと笑った。二人とも、重い緊迫感を少しでも払拭したかったのかもしれない。
倫巳は犯人から見た狙いやすさを意識しているのか、コートの前を開けて現れた。その下は濃い紫のジャケットだ。襟にはラペルピンまでついていて、中のシャツは淡いオレンジ。いつものように、細身のパンツを履いている。これを着こなせるのはこの人くらいだ、と塔子は思った。
事前に相談したとおり、江美里と塔子は遊歩道には入らず、少し離れた植え込みの中を歩いていた。遊歩道をいく倫巳の姿は、見えたり見えなかったりといった状況だった。
公園は広く背の高い木や茂みが多いので、いざというときに隠れる場所はたくさんある。逆に言うと、こちらからも犯人は見つけづらいということだ。
倫巳はいつもの通勤よりも長く歩いていた。夜の空気は、美しく澄んでいる。ビルを建てていないこの辺りは街灯しかないので、この街には珍しく星が見える。
散歩好きだから苦にならないと考えていたものの、思ったより気温が低い。マイナス五度といったところか。
公園は見る限り無人だった。二十分ほど歩いたところで、向こうはこちらの位置がわかるのだから早めに見つけてほしいと思い始めた。
そのとき倫巳は、ようやく人がいるのを見つけた。グレーのコートを着た会社員らしい男性だ。彼は、公園のベンチに座っていた。こちらを見ようともせずにスマホをいじっている。
倫巳は息をついてそちらに向かって歩いて行った。スピードを若干ゆるめる。ちょうど街灯の影になっているのと、相手が下を向いているせいで顔は見えない。これで反応がなければ、四阿の方にいってみよう。
そう考えている間に、倫巳はベンチを通り過ぎていた。
「もみちゃんまで、あと四メートル」
俯いたままの男が、スマホを見ながら歌うように言った。
倫巳は、その場に凍りついた。二度とされたくない呼び方だ。倫巳が生き方を変えた、元凶の一つ。
振り向くと、男はまだベンチにいた。手元で鋭く光るものが見える。ナイフだ。彼はゆらりと立ち上がり、前をふさぐように手を広げた。いや、招き入れようとしているのか。
「感じが変わっても、すぐわかったよ。バーチ・ディ・ダーマも、相変わらずおいしい」
男が足を踏み出したので、倫巳は思わず後ずさった。すぐに大きな一歩で間合いを詰められる。
「あのページに、返事くれたよね」
ニタっと笑いかけられ、倫巳は弾かれたように横に逃げた。男は笑みを浮かべたまま、動かずに倫巳が走るのを見ていた。まるで猶予を与えるかのようだった。
倫巳はカーブを曲がり、道のない緑地の中に入った。積もった雪に自分の足跡がくっきり残るのを見て、目を見開く。そろそろと足を道に戻し、それから何か考え込むように、眼鏡を上げた。
やがて遠くからザクザクと雪を踏み荒らす音が聞こえてきた。倫巳は慌てて駆け出した。
男はナイフをぶら下げたままゆっくり歩き、さっき倫巳が逃げ込んだ道にたどり着いていた。寒さはまったく感じない。ただ、高揚した気分で、声も歌うように弾む。
「もみちゃん?」
見渡したが倫巳の姿は見えず、足音も聞こえない。自分の声だけが小さく響いた。
そんなに遠くに行く時間は与えなかった。この公園を出てはいまい。
どこかに隠れているのだろう。無駄なのに。
スマホを取り出しアプリを起動する。あまりに近くにいたら、少し脅かしてから待ってやってもいい。
しかし、倫巳のスマホの情報は出てこなかった。寒さでバッテリーが切れたのだろうか。
「そんなことないよね」
男は一人呟いた。だとすれば、アプリの存在に気づいて電源を落としたのだろう。
「さすがもみちゃん。そうこなくちゃ、面白くない」
男は一方的な制圧を好むタイプではなかった。少なくとも自分では、そう自負している。
それなら、と男もアプリを使うのをやめた。ゲームは、フェアな方が楽しい。
これでお互い身一つの真剣勝負だ。
スマホをしまった男は、緑地についた足跡に気づいて、ニタッと笑った。
足跡は三種類あり、それぞれ三方向へ向かっていた。
遊歩道はなだらかな坂を繰り返し、続いていた。
「もみちゃん、出ておいで」
死んだように静まり返った公園に、男の楽しげな声が響く。彼の手元は、わずかな光を反射する武器できらめいていた。
「どこに隠れたのかな?」
倫巳は男の気配を探りながら、じっとうずくまっていた。冬囲いのされた植え込みに身を寄せる。白い息さえ見つけられそうで、レザーの手袋で口元を押さえた。
男が四阿の下を覗き込んで、苦笑いする様子が感じられる。
続いてザク、ザクと雪を踏む音や、ガサガサと植え込みを探る音も。
やがて、不吉な気配が遠ざかるのを感じた。透き通った夜の空気だけが現れる。
倫巳は息をついてから、あの局面でつい避難した己を叱責した。今だって怖気づいて出て行かなかった結果、取り逃がしてしまったではないか。
今度はこちらから見つけなければ。相手は刃物を持っている。江美里たちが先に見つかったら危ない。
普通なら無関係な人間には手を出さないだろうが、ストーカーアプリや店で彼女たちのことはもう知られていると思った方がいい。
少し迷ったが、倫巳はコートのポケットの中でスマホの電源を入れた。
二人と合流するのが先だ。
細い道に出た。緑道は手は加えられているものの、舗装されていない。
ここには小さな人造池がある。ここ最近は気温がさほど下がらなかったせいか、凍ってはいないようだった。
昼間は鴨が泳ぐのどかな水は、遠くの街灯に照らされて神秘的な光を放っていた。もし二人が近くにいたら、ここを目印にするか。そう考えて倫巳は スマホを出した。
声は、唐突に聞こえた。
「つかまえた」
同時に後ろから抱きつかれる。倫巳は、振り向くこともできずに息をのんだ。
男は味わうように、倫巳のくせ毛に顔をうずめた。
「もみちゃん・・・会いたかった」
「やめろ」
うめくように抑えているが、倫巳の言葉はよく響いた。男は嬉しそうに喉を鳴らした。
倫巳は男を振り離そうとしたが、あっさりと羽交い締めにされてしまう。
「相変わらず華奢だね。ちゃんと食べてる?」
男はいたわるような声で訊きながら、倫巳を力で押さえつけた。
植え込みづたいに隠れつつ、ようやく追いついた塔子は、もがく倫巳を見て小さく声を上げた。思わず出て行こうとしたところを、指の長い手がそっと押さえた。
男は倫巳の首に腕を回し、ナイフを後ろから顔に突きつけた。
「暴れたかったら別にいいんだよ。顔に傷がついても俺はずっと、もみちゃんを愛してあげる」
男が刃先を動かすと、シャツのボタンが一つ飛んだ。倫巳がこわばった目を見開く。
男が胸元にナイフを入れようとしたところで、塔子はリュウが立っているのを見た。倫巳からは見えない男の真横に、無言で佇んでいる。
「うわあ!」
男が腰を抜かした。塔子は何も考えずに飛び出した。彼らの前に出て行き、スマホで男の写真を撮る。相手がナイフを持っていたことは、その後で思い出した。
男がひるんだすきに、倫巳は彼の腕から逃れ出た。よろよろと地面に座り込む。リュウの姿はすでに消えていた。
塔子は街灯の下で男の顔を見た。暗かったが、はっきりわかった。
いつだったか、カフェに来ていた客だった。バーチ・ディ・ダーマ を気持ち悪く食べていた、太った男。
「もみちゃん、ずるいよ」
彼は寂しそうに、倫巳に笑いかけた。
「ちゃんと俺は一人で来たのに」
倫巳は地面に手をついたまま、切ない表情で犯人の男を見上げていた。その目にある種の同情が含まれている気がして、塔子は驚いた。
どちらにしてもこれ以上、二人に会話させる気はなかった。
「画像はお店に渡します。この人に二度と近寄らないで」
スマホをかざしながら、塔子は断固とした口調で言った。怒鳴らなかったが効果はあったようだった。
男は塔子を睨みつけたが、何も言わずに逃げ出した。
服をかき合わせた倫巳は、まだ地面に座っていた。
「い、今になって震えが」
「そりゃそうですよ。大丈夫?」
なるべくプライドが傷つかないよう、塔子は必要以上には手助けしないでおいた。
倫巳が立ち上がると、隠れていた江美里が植え込みから顔を出した。
「早く帰って、ホットワインであったまろう」
カフェに戻り、三人はホットワインのグラスでかじかんだ手を温めていた。
犯人の男は、倫巳が以前通っていたイタリア語教室の元クラスメイトらしい。何度もアプローチしてきていたが、飲みに行こうという誘いを倫巳 は断り続けていたという。
あの男がハンドルネームにまでしていたバーチ・ディ・ダーマは、教室のパーティーで作って持って行ったことはあるかもしれない、と倫巳は肩をすくめた。
「相手にするわけないだろう」
断じて個人的な付き合いはなかったと言い切った。
「こう言ってるけどこの人、その場では優しくて切りきれないから。それでつけ込まれるんだよね」
と江美里は言った。
そうかもしれないと、塔子はさっきあの男に向けた倫巳の目を思い出していた。
倫巳は仏頂面で、押し黙ったままホットワインを飲んだ。が、塔子と江美里が目を合わせて笑っているので、やがてフッと口元をゆるめた。
「・・・いや、しかし助かった」
グラスを置いて、倫巳は言った。
「あの足跡は、一人では不可能だ」
犯人を惑わせた三種の足跡は、三人の共同作業だった。
倫巳はあの緑地を踏んでしまった後、スマホの電源を切る前にメッセージを江美里に送っていたのだ。
篠崎さんと二人で緑地をランダムに歩いてくれと。
塔子の靴はヒールだったので役には立たなかったが、江美里はフラットなブーツを履いていた。それで犯人の目を迷わせ、倫巳の逃げた方向を少し考えさせるくらいは時間が稼げたのだ。
そこには、塔子と江美里に男の行き先を知らせて安全な距離を取らせる倫巳の意図があった。
ホットワインのおかわりを注ぎ、三人は改めて乾杯をした。そういえば、と江美里がふと言いだした。
「塔子さんが証拠写真撮ってくれたあのとき、黒い服の男が一瞬いたような・・・塔子さん、見ました?」
「えっ?」
思わず声が高くなった。
「黒い服の男?いや、全然気がつかなかったけど。私たち以外、誰もいませんでしたよね?」
塔子はできるだけさりげなく言葉を紡いだ。内心、慌てているから早口になる。
リュウの出現で倫巳が助かったのは事実だけど、と思いながら塔子は明後日の方向を軽く睨んだ。
その後もなんとなく倫巳が心配で、塔子はカフェにいつも以上に顔を出すようにしていた。
が、普段どおり少しクールに振る舞っていたのが見えてホッとした。弱みを見せた塔子に対し、きまり悪いという様子もなかった。
カプチーノを持ってくる態度も事件前と変わらない。前と違うのは器が少し大きめで、バーチ・ディ・ダーマが山盛りになったことだ。
倫巳は器を塔子の前に置くと、やや得意げにフニャッと笑った。
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