幽霊執事の家カフェ推理 第五話・逃亡のバーチ・ディ・ダーマ2
倫巳がマンションに戻ると、ちょうど隣人がドアの側に立っていた。
人の良さそうな小太りの中年女性で、スーツとコートに身を押し込めている。いかにも古株の会社員という印象で、何度か見かけたことがあった。
この単身用のマンションでは、基本的に住人同士の交流がない。出入りするときに顔を合わせることでもなければ、隣に誰が住んでいるのかわからないと思う。
軽く会釈をして通り過ぎようとすると、彼女が声をかけてきた。
「あの、これ食べませんか?」
ぎこちない笑顔で紙袋を差し出してくる。
「一人じゃ食べきれなくて」
見れば、最近話題になっている食パンの紙袋だった。
「二斤ずつしか売ってくれないんで、買っちゃったんだけどね。良かったらどうぞ」
「いいんですか」
倫巳はどちらかというとパン食派だ。冷凍しておけば、食費も浮く。
「軽くトーストした方がおいしいですよ」
女性はそう言って、笑顔のまま倫巳をじっと見た。その目はあくまで善良そうだ。だが、スーツを着ない倫巳の職業に対する好奇心とは、明らかに違う色を含んでいた。倫巳は、彼女から目をそらした。
「ありがとうございます」
相手が去ったのを確かめてから、暗証番号でドアを解錠する。
改めて見ると紙袋は小さめで、二斤も入りそうにない。わざわざ買った、という感じがした。この店自体も近くにあるわけではない。気を遣わせないよう、余っていると言ったのかもしれない、と倫巳は思った。
しかしいくら隣人とはいえ、ほとんど会ったこともないのにお土産なんて配るだろうか。
本来なら、お返しに店の焼き菓子でも持っていくのが礼儀なのだろう。だが、これをきっかけに義理のつきあいが始まっても面倒なので、倫巳はこれ以上考えるのをやめた。
イタリア人と同じ、おいしく食べて終了だ。
仕事帰り、塔子は江美里のイタリアンカフェに寄った。今日は倫巳はいないらしい。
カウンター席に座る。友達と楽しむのも好きだが、一人で寛ぐ時間も必要だ。
「こんばんは」
江美里は、水のグラスを置きながら微笑みかけてきた。一人で来たときの方が、親しげに見える。
「飲みます?」
このカフェはイタリアのバール同様、アルコールも出している。もちろん立ち飲みではなく、ちゃんと席があるが。
「そうだね、じゃあビールにしようかな」
ここはワインの他にイタリアンビールを買いつけていて、塔子も一人で来たときはたまに飲む。
江美里は細いグラスと、個性的なラベルの瓶を二本取ってきた。
「私もご一緒します」
慣れた様子で瓶を開ける。
「珍しいね」
「今日は飲まないと、もう」
江美里は器用にビールを注ぎ、きれいな泡を作った。
「乾杯」
なんとなくグラスを合わせて、同時に飲む。フルーティーですっきりした苦味が、気持ちをほどいた。
江美里は、塔子をよそに勢いよくグラスをあけた。
「何かあったんですか」
塔子は思わず訊いた。江美里は最近、自分のことをよく話してくれるようになった。本音や愚痴を言うこともあるが、もともとさらりとした感じの人なので嫌みは感じない。
「見てくださいよ、これ」
待っていたと言わんばかりに、江美里はカウンター越しにスマホを見せてきた。誰もが知っている、飲食店の口コミサイトだ。塔子も初めて行く店だと、必ずといっていいほど事前に見る。
悪意のある口コミが書かれたのだろうか。塔子は実際に見たことはないが、そういうことがあるという話はしばしば聞く。
見ると、店の評価は五段階のうちの四に近い。こういうサイトでは飛び抜けて良いと言える。
だが目に飛び込んできたのは、まったく異質な書き込みだった。
「この辺りでは珍しい、本場イタリア菓子が食べられるカフェ。でもあの事件現場から近いのが気になる」
「あれですよね?男性が連続で服を切りつけられてるっていう。まだ捕まってないんですか」
「恥だからって被害者の男性が通報しないから、そもそも事件になってない。犯人は野放し」
「けが人が出てないせいもあるんじゃないです?後ろから羽交い締めにされて、服を切られるだけって聞いたけど」
「友達の先輩が見たって言ってたけど、すごいらしい。服バッサリ切られて、半分体見えてたって」
「先日も一件あったらしいですね。この辺りは治安いいと思ってたのに・・・」
「こないだ道で露出して倒れてる人いたって。じゃああれも、そうだったんじゃない?」
「みなさん、あの事件のことは言わない方が。」
「ていうか、ここカフェの口コミサイトなんですけど。関係ない話は書き込み自粛してくれません?迷惑です」
「被害者の共通点は、痩せ型で明るい髪色。こういうイケメンに彼女とられた逆恨みじゃね?」
「いや、それが犯人の好みだって聞いた。服を切るという行為も欲望の表れらしいって、心理学とってる先輩が」
塔子は、唖然として書き込みを読み進めた。まるでチャットか、ニュースサイトのコメント欄だ。
最新の書き込みがどんどん上に来るから、もはやカフェ本来の口コミは埋もれてしまっている。
「もう、ほんと迷惑なんですよ。新手の嫌がらせかと思って」
江美里はぐいっと追加のビールを飲んだ。いつのまにか塔子のグラスにもついでくれていた
「確かにひどいですね、これ」
塔子もグラスを傾けて頷いた。
「お店の情報と関係ない内容だし、消せないんですか?」
「私たち側からは消せないんですよ。公正を保つためってことで、そういうサイトのルールなんです」
その仕組みは塔子にも理解できた。店側が、自店に都合の悪い評価を消す可能性も大いにあるからだ。
ここは情報操作のない口コミサイトということで、長く人気と信憑性を保っている。
「規定違反の書き込みだし、削除依頼は出してるんですけど。なかなか対応されなくて」
店の対応を禁止するなら、せめてちゃんと運営してほしいと、江美里はため息をついた。
有名な口コミサイトだから、掲載店舗も全国にわたる。
ただでさえ件数が多い上に、無駄だとわかっていても自店に都合の悪い書き込みを消してくれと依頼するところも、ごまんとあるのだろう。そんな中で削除依頼を一つ一つ見て判断していけば、時間はかかる。
運営会社の対応が遅れるのも、わからないではない。
「でも、何なんですかねこの事件。見たことないけど」
塔子はふと言った。
「私もないですよ。テレビでもやってないし・・・恥ずかしいとか言わないで、誰か早く通報してくれればいいのに」
第三者の勝手な言い分ですけどね、と江美里は肩をすくめてビールを飲み干した。
トルタ・パラディーゾに粉砂糖を振り、シートを慎重に外す。型どおりのきれいな雪の結晶が現れ、倫巳はふっと表情をゆるめた。
透明なケーキカバーをかぶせ、ショーケースに入れたところでテーブル席から手が上がった。ビジネスマンらしき男性客だ。
ちらりと江美里を見ると、彼女は真剣な顔でエスプレッソに取りかかっていた。自分が行くしかない。
倫巳はスイーツ作りが本業なので、あまりホールには出ない。サービスが好きなわけでもなかった。 ただ、自分の作品を喜んで食べてもらえているのかどうかは知りたいから、スイーツを出すときには行くこともある。
江美里が言うには、接客の評判も悪くないらしい。直接言われたことはないが、よく女性客が自分のことをかっこいいと褒めてくれるのは知っていた。
倫巳は誰が相手でも、接客スタイルは変えない。笑顔を向けることはあるが、基本的にさらりと終わらせる。
倫巳を呼んだ男性客は、エスプレッソカップを指しておかわりを求めた。
倫巳は頷くと、ソーサーを下げるために手を伸ばした。突然、その手を掴まれた。倫巳はギョッとして顔を客に向けた。
男は無表情のまま、確かめるように倫巳の手を指でさすった。
「君さあ・・・ひょっとして」
目が合う。
その先の言葉を遮るように、倫巳は手を引っ込めた。カチャン、と食器が音を立てる。そのまま逃げるようにソーサーを下げた。
カウンターで江美里の顔を見て、ほっと息をつく。彼女はちょうど火を止めたところだった。倫巳はおかわりのエスプレッソをさっきの客に出すよう頼んだ。もう自分で行く気はない。
平日の昼間は女性客も多いが、意外と休憩に立ち寄るビジネスマンもいる。最近は減ったが、ノートパソコンを持ち込んで仕事をする自由業らしき人も見かける。
トルタ・パラディーゾのオーダーが入ったので、倫巳は切り分けて持っていった。顔なじみになった年配の女性客だ。プレートを置くと、にっこり微笑んでくれる。倫巳も笑みを返した。
最近ここに越してきたという彼女は旅行好きで、スペインやイタリアを数年おきに訪れているという。倫巳のスイーツが現地のものに近いと、喜んで通ってくれるようになった。
ふと顔を上げると、男性客の一人が倫巳を見つめていた。不健康そうに痩せていて、黄色いパーカーにびっしり毛玉が付いているのが、遠目にもわかる。
男は倫巳を呼ぶでもなく、ただ見ていた。テーブルに食べ終えたトルタ・パラディーゾの皿と、バーチ・ディ・ダーマの器がある。気に入ったので、倍払うから山盛りにしてくれと注文した客だ。
顔の前に持ったスマホはいじらずに、男は視線を落とした。
カウンターに隠れている倫巳の足元から腰、胴、首、そして顔まで、なぞるように目を動かす。そして、倫巳の瞳でびたりと止めた。
倫巳はその客に見覚えがあった。地下鉄でミステリー小説を読んでいたときに、わざわざ横に来て話しかけてきた男だ。
「その作家、お好きなんですか?僕もなんですよ」
だから何だというのだ。
ちょうど推理を組み立てていたところで邪魔をされ、倫巳は冷たい一瞥だけを返して無視した。それでも男はしばらく隣で喋り続けた。
最近のできごとではなかったが、不愉快だから覚えていた。間違いなく、あの男だ。
その客が見せつけるようにバーチ・ディ・ダーマを口に運ぶのを見て、倫巳は目をそらした。今は店員という立場だし、変に関わりたくなかった。
それに、男にじっと見られるのはどうも落ち着かない。だがこちらが目をそむけていても、彼の絡みつくような視線が続いているのを感じた。
平静を装ってバーチ・ディ・ダーマをガラスの器に盛りつけていたが、やがて自分の手が震え始めたのがわかった。
倫巳は器から離れてバックヤードに駆け込んだ。棚に手をつき、己を落ち着かせるために目を閉じて深呼吸を繰り返す。息も心臓の動きも、ひどく速いのがわかった。
やがて緊迫感が引いていくと、倫巳は大きく息をついて眼鏡を上げた。
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