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お金以外の選択肢と、自給自足の新たな視点。
価格設定への違和感。
2/4「おほつち」という地球を土から元氣にするプロジェクトをスタートするのだけれど、自分の中でイマイチ腑に落ち切らないのが「価格設定」だ。
プロジェクトの詳細は、また別記事で書くけれど、ざっくり言うと自分が住む土地との相性やメッセージを知り、自らの手で整えることで、土地神様に護られ応援される人を全国に増やすことを目的としている。
内容的には、これまでやってきたことの集大成になるし、鑑定的なこともするので「1回 〇〇円」と価格をつけるのが普通だし、これまでもそうして来たのだけれど…
「おほつち」をメニューや鑑定、セッションという枠を超えて「プロジェクト」として捉えた瞬間、見え方と広がり方がガラリと変わって、余計に価格設定をするのが??になってしまったのだ。
プロジェクトだと思ったのは、日本各地に大地の守り手仲間が増えることで「土のつながり」ができたら最高だなと思ったから。
縦でもなく、横でもなく、土のつながり。
ただ鑑定を受けて終わりじゃなくて、むしろそこからがスタートで。ゆくゆくはお互いの畑で取れたものやその土地のものを物々交換したり、それこそ土を交換したり(土同士で情報交換するの)、おほつちを通じて人と人、物と物、人と物がつながって行けたらいいなって。
土地とつながる
人とつながる
循環型&参加型のプロジェクト
そんなことを思い描いた時に、ますます浮き彫りになる違和感。なにがこんなに引っかかってるんだろう?と、自分の中を見に行ってみた。
自給自足の新たな捉え方。
いま、実際に逢いに行きたいのが石垣島のエコビレッジビルダーの銀ちゃん。友人から話は聴いていたけれど、TolandさんとのコラボをきっかけにYoutubeを見漁っている今日この頃w
銀ちゃんが、日本でエコビレッジとか村づくりをする時にまずみんなが輪になって考え始めるのが「お金のこと」、それじゃ、本末転倒だと言っていたのを思い出す。
でも、生活にはお金が必要だし、だから対価として価格設定をするのは当然のこと。だけど、自分の中で何かが引っかかるんだ。
そこで自分に聴いてみた。
縄文的な暮らし、自給自足の生活で手に入れたいのは何なのか?
→生きていくのに必要な分の水・食料・住まいが確保できることであって、お金そのものではない。あくまでお金はそれらを得るための「交換手段」。であれば、それらがダイレクトに手に入れば、一回お金に変換する必要なくない?
その時「あ、わたしの中の自給自足って、何でもすべて自分一人で賄わなければって思ってたから、ハードル高そう、結局大変そう、しんどそうっていうのがどこかにあって、やってみたいけどブレーキ踏んでたんだ」と思ったのと同時に
え?自給自足って
ある集団または個人に必要なものなどを身近な範囲でまかなうこと。また、それが十全に実現している状態。特に貨幣経済によらずにそのようになっていること。
ならば、
必要な時、必要な分、手に入るルートがあればいいってことじゃん!!と目の前が明るくなった。
わたしが生きたいのは、こういう世界だ!って
「対価交換=お金」に固執しなくても、本当に必要なものが必要な時に入ってくるという「大きな安心感」の中にいられるって、最高にリラックスした状態だよね。
しかも、それが「わたし 対 誰か」の間だけじゃなくて、「おほつち」の中で誰かがピンチ!ってなった時に、余裕がある人がgiftできたらいいよねって。土が循環するように、そういう循環が生み出せたら最高だなぁ。
実際に土地を買って、村づくり。となるとハードル高ってなるかもだけど、遠隔ver. みんなそれぞれの土地にいながら、全国に拠点ができるって最高のセーフティーネットだと思う。(これについては、また別記事で)
かと言って、お金が必要な場面はあるし、お金がダメとは全く思わない。むしろ、お金も好き。でも、お金だけに縛られなくていいし、上限や下限を決めて制限しなくていいよねって思ったら、途端にスッキリして選択肢が広がったんだ。
お金のgiftでも、物資のgiftでもOK
引越しの手伝いや畑作業参加でもOK
そんな循環型&参加型のプロジェクト「おほつち」
間もなく始動 !