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フォーカス・チェンジャーによる思考コントロール
前回の記事では、6つの秘訣のうち5つの秘訣を深堀りした。その中で、おそらく著者のリービーが自覚していないであろう、各秘訣の根っこにある思想的背景まで書いてみた。そのなかで特に、6つ目の「フォーカスチェンジャー」は奥深いものがあったため、時間の関係もあって別記事にする次第である。
と、すこしハードルを上げつつ、このフォーカス・チェンジャーの効能について、さっそく結論を言っておきたいと思う。これは、無意識の領域から文章を生成流動させていくときに、私たちが唯一できるコントロール方法なのである。大きな川の流れに沿って下っていくうつぼ舟に乗る私たちは、このフォーカス・チェンジャーによって、ささやかながらその方向を変更し、目的地を目指すことができるのである。
さてここからは、その詳細な説明である。前回までに紹介した5つの秘訣については、坐禅や能、さらにインプロビゼーションなどを例に上げながら、ひとことでいえば無意識の領域についての話をしていた。無意識というのは、その名の通り、意識できないものであるから、こちらでコントロールができない。直接コントロールができないからこそ、身体感覚や時間的制約、ただその無意識を受け入れるYes, Andの作法などで、それを引き出してきた。
しかし、こうしてコントロールできないものを活用するにしても、文章作成という意識的な作業を行うには、どうしてもどこかで介入する必要がある。ただただ思考を垂れ流しても、文章として成立しないからだ。そこで私たちはうつぼ舟の上から、そっと棹さしてみるわけである。この無意識への介入の仕方を、リービ的にいうと「フォーカス・チェンジャー」ということなのだ。
経験論的執筆術としてのプライベート・ライティング
このフォーカスチェンジャーを説明するのに、すこし哲学的な話から入ってみようと思う。その出発点はイマヌエル・カントだ。カントは、それまでの大陸合理論の流れを受けて、思弁的に世界について思索していた。そのパラダイムは、外部の世界は客観的に捉えることが可能であるというもので、客観的世界を論理的につきつめていけば、真理にたどり着けるのだという信念に基づいていた。しかしそこに冷水を浴びせたのが、デイビッド・ヒュームであった。
ヒュームは、客観的世界を直接知ることはできないと考えた。直接知ることのできないことを議論するなんて、空論だ。このヒュームの主張に、カントのこれまで積み重ねてきた思索は、灰燼のように吹き飛んだ。あまりの衝撃に、同じ時間に行っていたことで近所の住民から時計代わりにされていた散歩をすっぽかしてしまうほどであった。カントいわく「独断のまどろみ」から目を覚まさせたその思想は、今ではイギリス経験論と呼ばれている。イギリス経験論では、客観的真理を認めず、あくまでそれを見たり触ったり聞いたりするときの経験のみがあると考えた。「りんごを見た」からといって、そこにりんごがあるとは限らない。徹底的な懐疑論の立場にたった。
カントは、経験というのをその思想に取り込もうとした。外部にあるものを「物自体」と呼んで、それには触れることができないのだとして、一線を引いた。一方で、自分の中で起こるさまざまな経験については、イギリス経験論の主張に対して、すこしだけ合理論の陣地を確保することにした。具体的には、ものから受ける印象など、感覚で捉えるはたらきを感性、そこからその対象がりんごであるとか、机であるとか判断するはたらきを悟性、さらにそこから論理的に推論できる部分を理性と呼んだ。
以前にも書いたことがあるが、これは英語にするとわかりやすい。感性はSenseであり、悟性はUnderstanding、さらに理性はReasonと訳される。このなかで、大陸合理論を牽引したのはReasonを司る理性の部分で、カントはイギリス経験論の侵攻を食い止め、撤退しつつ理性の部分で大陸合理論の地位をなんとか確保した。この痛み分けの決着によってカントは、イギリス経験論と大陸合理論を統合したと評価されることになる。
このように経験と合理の境目を厳密に見極めるために、もうひとつカントはメスを入れる。そのメスの名前を「ア・プリオリ」という。哲学科の学生がかならずかかるはしかのようなボキャブラリーのひとつだ。これは「先験的に」と訳されるが、要は経験より前に獲得しているということで、ここもまた経験論に対する重要な防波堤となった。
たとえば、「感性」で捉えるときに必ず伴う時間と空間という形式は、経験しなくても使っているではないか。だから経験論は時間と空間という形式が「アプリオリ」、つまり経験より先にあることを認めろ、とシュプレヒコールを上げる。また、「悟性」においては、量や質、関係、様相など12のカテゴリー(ここでは細かくあげない)が経験するよりも先にあると考えた。「すべてが経験なんて、言わせないから!」というカントの熱量を感じ取ることのできる、なんともエモい部分だ。その分、個人的にはちょっとモヤるところでもある。
とまあ、このように、「感性」と「悟性」、「理性」を切り分けるところにカントの発明があるのだが、私は一体、何について話しているかと言うと、考えたままを書き連ねるプライベートライティングは悟性による執筆手法だということを言いたかったのだ。感性に響く生成流動する要素を取り込み、それを悟性だけで書き込んでいく。できるだけ理性は関与させない。悟性の執筆術、それがプライベートライティングの本髄なのだ。リービーのあげた秘訣の「思考に導かれるままに」というときの「思考」とは、カントのいうところの悟性(Understanding)であり、理性(Reason)ではない。町田康的に言えば、悟性は内蔵変換装置であり、一方の客観的論理を展開する理性は、外付け変換装置になるだろう。プライベートライティングとは、経験論的な執筆術なのである。
感性コントロールとしてのフォーカス・チェンジャー
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