どんな気持ちで継続してるの?−『さよならドビュッシー』と『蜜蜂と遠雷』−
※こちら映画『さよならドビュッシー』『蜜蜂と遠雷』を見ての感想です。ネタバレを含みますのでご注ご注意ください。
「将来の夢なんてない」「やりたいことがわからない」。そんな言葉をよく聞く。今も昔も。
指示されたことを完璧に遂行するような生活を送ったり、嫌われないように波風立てないように人の顔色を伺いながら生きてきたりしたことがある自分なので、「夢がわからない」に共感できなくもない。指示された枠の中で遂行しようとすると、主体性は消えかかったロウソクの炎のように小さくなってしまうので、やりたいことを自覚することが難しくなってしまうのだろう。
逆にやりたいことが明確にわかっている人は、わかってない人と比べて何が違うのだろう。最初の一歩だけでなく、ずっと目標に向かい続ける原動力ってどこにあるんだろう。常々考えていた疑問の一つの答えかもしれないと思った出会いがあった。その一つが映画の『さよならドビュッシー』だ。
ピアニストを目指す主人公がコンテストに向けて練習を重ねる話。主人公が何者かに命を狙われるというミステリーでもある。
主人公は大事な曲を大舞台で演奏することを目的としている。それはどうしても引きたい曲があるからという強い気持ちに突き動かされている。全身大火傷で思うように手が動かないにも関わらず懸命に練習に励むのは、大切な人との約束を守るためである。
作中、主人公のピアノの先生の言葉を引用したい。
大切な人のためだったら最後まで頑張れる
どうしても!という気持ちが瞬間的に人を突き動かしたとしても、それだけでは継続することは難しい。でもそれが、自分ではなく誰かのためであれば頑張り続けられるのかもしれない。
とは言え、全身火傷してて動くのも大変だったり、殺されそうだけど誰が犯人かもわからなかったりしたら、ピアノどころではないのでは?そこまでいかなくても、伸び悩んだり長く結果が出ない時には「もう投げ出してしまいたい!」と思ったりするのでは?
その苦しみから抜け出す後押しをしてくれるかもしれないと思ったのが、もう一つの出会いである、映画の『蜜蜂と遠雷』だ。
過去のコンテストで突然ピアノを弾けなくなった主人公が、再び大きな舞台での演奏に挑戦する話である。
この話で主人公は仲間との交流や亡き母との思い出から、舞台に立つトラウマを克服する。
私達が困難を乗り越える時、それは一人で何かを成し遂げる時ではない。一人ではどうにもできなくてもがいて、でもそこに助けてくれる人がいて初めて一つの区切りを迎えることができる。「人は一人では何もできない」。そう考えられるからこそ、人のための行動をより具体的に思い描くことができるのかもしれない。
最初から大きな目標を立てることは難しい。そんな人こそ、どうやったら自分の大切な人に楽をさせたり喜ばせたりできるのかを考えてみてもよいのかもしれない。その行いは、やがて大きくなって社会という単位の中での人助けにつながっていく。崇高だと思ってる有名人の目標も、案外そんなことかもしれない。
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