存在


  1


 目が、エグられていくような感じがする。

「人間の存在が神の雑念や柵によるものだと思う人は挙手をしてください」
 テレビではまたこの議題を取り上げている。よくもまぁ飽きないものだ。もう答えは出ていると何度も言っているだろうが。神は雑念など抱かないと。
 だから人間は神のものなんかじゃないんだ。むしろ神は人間が作った一番の失敗作なんだ。そう何度も言っているじゃないか。物分かりの悪いじいさん共だ。これじゃあ老害と言われても仕方がないな。
「あきら、ご飯よ」
 向かいの家の明かりが灯る。
「ありがとう、そこに置いといて」
 いつの間にか明かりが消えている。
「たまには下で食べなさいよ」
 今度は小さな明かりがしきりに点滅する。
「嫌だ、アイツとは顔を合わせたくない」
 電球が割れる。
「またそんなこと言って……じゃあ、お母さんが殺しといてあげるから」
「うん、ありがとう」
 テレビは尚も続く。
「タレントの斉藤ゆうみさんが自殺をしました。自宅で首を吊った状態で見つかったということです」
 僕は衝撃を受けた。彼女は好きなタレントの一人だった。誰に何に対しても物怖じしないその性格が好きで、テレビを通していつもエネルギーを貰っていた。
 人の死とはこんなにも辛いものなのか。テレビでしか知らない全くの赤の他人ですらこんなにも辛いならば、身内や恋人の場合、どんなに辛い思いをしなくてはならないのだろうか?
「あきら、殺しといたわよ」
「そっか、ありがとう」
 今なら泣けるかもしれない。大嫌いな父親の死に対して、大粒の涙を流せるかもしれない。そう思い、僕はその重く閉ざされたペラペラの扉を開けた。
「今日はカレーライスか」
 僕は久しぶりにリビングでご飯を食べることにした。
「こんなに広かったっけ」
 数年ぶりのリビングは、僕が思っていた以上に広く温かかった。
「いただきます」
 返事はない。右には無惨に刺し殺されたお父さん、左には首を吊ったお母さん。
 やっぱり僕は泣けなかった。それどころか、少し大きめな蟲が手足を懸命に伸ばして網戸を上っていく姿を見て、あろうことか人間と見間違えてしまいヒドく不快な思いをした。
「おいしいな」
このカレーライスのおかわりはあるのだろうか?僕はそればかりが気になってしょうがなかった。どうしようもなくなった僕は、警察の人にその大疑について電話で聞いてみることにした。
「すみません、カレーライスのおかわりはあるのでしょうか?」
すると、警察の人は優しくこう答えてくれた。
「はい、あります。きっとお父さんとお母さんのお腹の中にたくさんあるはずですよ」
 僕は興奮した。と同時に、そんな簡単なことに気付けなかった自分の愚かさを恥じた。
「包丁で取り出してみてください」
 警察の人は続ける。
「もし包丁が見当たらなかったら、近くのコンビニで買ってきてください。コンビニは、外に出て少し辺りを見渡せばそこら中にありますので、すぐに分かるはずです」
 警察の人はまだ続ける。
「もしお金がなかったら、その包丁で店員さんを脅してお金を奪ってください。そして、しっかりとお会計をしてから、その店員さんのお腹をその包丁で開いてみてください。そこには溢れんばかりのカレーライスが詰まっているはずですから」
 僕はふと疑問に思った。
「それなら、僕のお腹の中にもカレーライスは詰まっているのですか?」
 警察の人は陽気にこう答えた。
「はい、もちろんです!この世で一番おいしいカレーライスがそこには詰まっています!」
 僕はすぐに電話を放り投げ、そのヒドく汚れた指で自分のお腹をパックリと開いてみた。するとそこには、溢れんばかりの大宇宙が広がっていた。初めてだったから少し手こずったけど、なんとかその汚らわしい銀河まで辿り着くことができて、僕はまるで極楽浄土に達したような気分になった。
「警察の人、ありがとうございました。それでは、さようなら」
 僕は貪るようにしてそのカレーライスを食べた。しかし、食べても食べてもそのカレーライスは減らなかった。ちゃんと食べているのに、絶対に僕の元へと戻ってきてしまうのだ。
 なんでだろうな?原因の分からなかった僕は、また警察の人に聞いてみることにした。
「もしもし、お腹から取り出したカレーライスなんですが、食べても食べてもすぐにまた僕の元に戻ってきてしまうんです。それは、どうしてでしょうか?」
 警察の人は嬉しそうに答える。
「それがこの世の摂理というものだからですよ。そういった繰り返しの中で僕たちは生き、そういったことを繰り返すことで、僕たち人間は人としてこの世界を歩んでいけるのです。分かりますか?」
 僕は立派にこう答える。
「はい、とてもよく分かります!それでは、さようなら」
 ちゃんとお礼も言えたし、そろそろ食後のアイスクリームでも食べようかな。おいしいおいしいバニラアイスクリームを、一人で楽しく食べようかな。

 小蝿が飛んでいる。僕はいつものようにすぐさま凶悪な殺戮者と化して、その小さな命を無慈悲に一瞬で終わらせた。


  2


「二〇十五年三月九日、東京都笹塚にある一軒家で、その家に住む二十一歳の長男が、両親を殺害し食すという奇怪な事件が発生しました。その長男は供述で、あなたのお腹にあるカレーライスもありますか?などと意味不明な発言を繰り返しており、警察側は、刑事責任能力の有無についても慎重に調べを進めていくということです」

 またこういった類いのニュースか。よくもまぁ飽きないものだ。もう人の精神状態は普通ではないのだ。取り締まる警察側だって大半が異常者ではないか。全く以て時間の無駄だ。
「あきら、今日はあなたの大好きなカレーライスよ」
 母親が嬉しそうに僕にそう告げる。こんなニュースを見たばかりでカレーライスなど食う気になれなかった僕は、その声に対し丁寧に断りを入れた。
「お母様、今日は何か体調が優れないようですので、夕ご飯は遠慮をしておきます」
 すると、母親はその場でヒステリックに泣き崩れた。
「ママ、あきらのために、一生懸命、丹誠込めて作ったのに……ヒドい、あんまりよ。もう勝手にしなさい。あなたなんて死んでしまいなさい」
 その女はそう言い放ち、意味もなく家中を這いずり回った。そして、過去の幸せだった記憶の中に逃げ込み、ニヤニヤと笑いながら、可愛くて小さな「あきら」の頭をしきりに撫で始めるのであった。
 すなわち僕は死ぬことにした。部屋で飼っていたゴキブリを丸呑みにして、その小さな命に喰われる道を選択した。

 大きな音が鳴り響いた。小さな命がそれよりももっと小さく穢れた心を喰らい尽くす音が、母が食い入るようにぼーっと眺めていたテレビの中から、無慈悲に盛大に鳴り響いた。


  3


「二〇十五年三月九日、東京都笹塚にある一軒家で、その家に住む二十一歳の長男が、両親の発言に対し激怒し、自分の可愛がっていたゴキブリに自分を食わせるという奇怪な事件が発生しました。その長男は、頭だけとなってしまいましたが、見事に美しく一命を取り留め、警察の取り調べに対し、カレーライスが何が罪ですか?などと意味不明な発言を繰り返しており、警察側は、刑事責任能力の有無についても慎重に調べを進めていくということです」

 もうこりごりだ。この世界はいつからこんなにまともになってしまったのだろうか?とてもじゃないけどつまらな過ぎる。人間の前倣え精神が、ここへきて急速に加速しているように感じる。
「あきら、今から行ってもいい?」
 美香に電話でそう言われてから、もう一時間近くが経つ。私はもうどうでもよくなって、おいしいカレーライスを独りで作ることにした。
 しかし、一人暮らしの私の家の冷蔵庫には、それを作るのに十分な材料が揃ってはいなかった。
「美香、カレーライスの材料買ってきて」
 電話をするのも面倒だったので、私はそう独り言のように呟いた。きっと美香なら分かってくれるはずだ。おそらく彼女は親友のはずだから。彼女は私にとって唯一親友と呼べるまともな人間のはずだから。
 寂しい女の一人暮らし。遊びにきてくれるのは、同じく寂しいこの美香という女だけだった。
 テレビでは、子供達に街頭インタビューを行なっている。最近、頻繁に起こるようになった怪事件についてのインタビューだ。
「僕は黙秘権を行使します」
 十歳くらいの男の子が、生意気にそんなことを口にした。次の瞬間、その男の子にインタビューをしていた青年が、マイクでその男の子の頭を思い切りぶん殴った。テレビは血の海でいっぱいとなった。
 福神漬けが食べたくなった。美香はそれもちゃんと買ってきてくれるだろうか?いや、気の利かないあの女にそんな芸当は無理か。一瞬でも期待した私が馬鹿だった。
 一体いつになったら美香はこの家にやってくるのだろうか?早く私は美香のカレーライスが食べたいだけなのに。


  4


 隣の女が、誰かと電話をしている。どうやらカレーライスの材料を頼まれたらしい。それにしても大声で話す下品な女だ。ましてやここは電車の中だぞ。少しは場をわきまえて欲しいものだ。
「おい、五月蝿いぞ、お前」
 向かいの席に座っていた十歳くらいの男の子が、生意気にそんなことを口にする。すると次の瞬間、その女は自分の携帯電話でその子供を思い切りぶん殴った。そして、それを見ていた周りの大人達も、一斉にその子供に暴力を振るい始めた。
 まるで天国にいるようだった。そこには何一つ柵などなかった。一人傍観者を気取っていた僕だけが、その芳しいカレーライスの香りをたっぷりと味わうことができた。今日の晩ご飯はカレーライスにしよう。そう誓った僕は、その子供を助ける為に勇敢に席を立った。
「おい、五月蝿いぞ、お前ら」
 僕の目の前を黒蝶がふわりと舞った。


  5


「本日午後六時十分頃、品川駅付近を走行中の山手線内で、二十一歳の男が十歳の男の子を、自らの携帯電話で殴り死亡させるという事件が発生しました。その男は、僕にカレーライスを食べたいからその男の子を救った、などと意味不明な発言をしているということで、警察側は、刑事責任能力の有無についても慎重に調べを進めていくとのことです」

 美香がやってきた。やっとカレーライスが食べられる。
「お待たせ、今日はこの子のカレーライスでいいかな?」
 美香はそう言い、両手に抱きかかえていた十歳くらいの男の子をゆっくりと床に置いた。
「いいよ、ありがとう。それより、福神漬けは買ってきた?」
 美香は急におどおどとしだして、懺悔の言葉を口にした。
「申し訳ありません、私はそれを買ってくることを忘れました。したがって、死んでお詫び申し上げます。それでは、さようなら」
 私はとても嬉しかった。私の為に誰かが死んでくれるなんて……今まで一度も感じたことのない感動が、私の胸を優しく荒々しく撫でた。
「ありがとう、あなたは私の一番の親友よ。それじゃあ、さようなら」
 空気がとっても温かかった。


  6


 もし悪魔がいるのなら、この世界はきっとそいつの巣窟だろう。
「あきら、悪魔さんから手紙よ」
 母さんの振りした悪魔が、自作自演でその手紙を僕に手渡す。
「親愛なるあきらさんへ。そろそろカレーライスが食べたくなる季節ですね。今度僕はそれをそちらへ食べに行きますので、その時は何卒よろしくお願いいたします。悪魔より」
 一体コイツは何を言っているのだろうか?訳の分からなくなった僕は、冷蔵庫に冷やしてあったカレーライスを、温めもせずにそのまま食べることにした。
「母さん、このカレーライスおいしいね」
 返事はない。もうどこにその亡骸が転がっているのかさえ分からない。一体どれくらいの時間が経過したのだろうか?もはやそこにあるロープと包丁は、新品のように光り輝いていた。
「豚肉かな?鶏肉かな?牛肉かな?それとも……」
 腐乱臭という淫らさに僕の理性は今にもぶっ飛んでしまいそうだった。


  7


 テレビ放送では今日も、売春婦の情報が流れる。今日のオススメは、美香という二十一歳の女だそうだ。僕はたまらず電話をかける。しかし、一向に繋がる気配はない。
「あきらくん、あーそぼ」
 あきらが遊びにきた。僕たちは小学校のクラスメイトだ。今日は僕の十歳の誕生日だから、あきらはきっとそれをお祝いにきてくれたのだろう。
「どうぞ、上がって」
 僕はあきらを家の中へと招き入れた。あきらはお邪魔しますも何も言わずに、勝手に僕の家であぐらをかき始めた。
「あきらくん、喉渇いた」
 僕は冷蔵庫から麦茶を取り出し、それをゆっくりゆっくりとコップに注いで、それをゆっくりゆっくりとあきらの頭へとかけ流した。
「おいしいよ、あきらくん。ありがとう、あきらくん」
 殺意が芽生えた。気付いた時にはもう、僕はあきらのことを撲殺していた。すると、あきらのズボンのポケットから誕生日プレゼントが転げ落ちた。僕の目から涙がこぼれ落ちたような気がしたが、それはテレビから流れたある怪事件の速報によって掻き消されてしまった。

「今日未明、十歳の男の子が、十歳の男により撲殺されるという事件が発生しました。警察は、自殺とみて捜査を進めているとのことです」

 まるで身に覚えのない感触に、張り裂けそうな胸の高鳴りが邪魔で邪魔でしょうがなかった。


  8


 僕はずっと、障害者という括りの中で生きてきました。もちろん、周りからはずっと蔑まれ、一途に虐げられてきました。
「あきら、あなたは何で障害を持って生まれてきてしまったの?あなたなんて生まれてこなければよかったのに。あなたなんて存在しなければよかったのに」
 これが母親の口癖です。僕が何も分からないと勘違いして、いつもこのような酷い言葉を投げかけます。
「今日もこのカレーライスを食べなさい。残り物で作ったこのお薬がたくさん入ったカレーライスを。そして、さっさと死んでしまいなさい。一刻も早く死んでしまいなさい」
 そう言いながら母は、僕の口へカレーライスを運びます。口の周りをべた付かせる僕を、母はもの凄い剣幕で殴ります。それはそれは思い切り殴ります。
 僕は頭の中で母を何回も殺しました。殺して殺して殺しまくりました。それでも母は、いつも僕の口にカレーライスを運びます。そして何の躊躇いもなく殴ります。蹴ります。
 僕だって痛いんだよ。痛みを感じるんだよ。しっかりと考えることもできるし、喜怒哀楽の感情もあるんだよ。ただ喋れなくて体の自由が利かないだけなんだよ。分かってよ、お母さん。僕を受け入れてよ、お母さん。
「醜い子。早く死んでしまいなさい。早くその呼吸を止めてしまいなさい。醜い子、あなたはとっても醜い子」
 お母さんはそう言いながら、思い切りそのカレーライスを宙へとぶちまけました。見事に舞ったそのドロドロとした物質は、美しい蝿のように瞬く間に昇華し輝きを放ちました。


  9


「プルプルプル……はい、もしもし?」
「カレーライスはどこにありますか?」
 またコイツからだ。もう一体何度目だろうか?終始意味不明な発言を繰り返すこの男。もういっそ警察に通報してしまった方がいいのではないかと思えるほどの狂いようだ。
「カレーライスが食べたいんですか?それならお母さんにでも作ってもらってください。それじゃあ、さようなら」
「待て」
 急にその男の声色が変わる。
「お前さっきから何なんだ?頭がおかしいのか?俺の質問にちゃんと答えろ。もう一度言う、カレーライスはどこにあるんだ?」
 俺は泣き出しそうになった。何故俺が叱責されなければならないんだ?怒りをぶちまけたいのはこっちの方だ。
「だから、カレーライスはお母さんに作ってもらってください。それで全てが解決するはずです」
 男は更に強い口調で言う。
「俺にはママはいない。パパもいない。何故なら俺は神だからだ。俺が全てを作った神だからだ。だから俺には親がいない。よって、カレーライスを作ってもらうことなどできやしない」
 俺の涙腺はもう崩壊していた。
「それならあなたが作ればいい!あなた自身でカレーライスを作ればいい!それくらい神であるあなたになら容易いはずです!それくらいできなくて何が神ですか!」
「神を侮辱するのか?」
「えぇ!私は無神論者ですから!」
 おそらくだが今、外では大雨が降っているだろう。


  10


「実験結果はどうだった?」
「また失敗です」
「そうか、やはり神は作れなかったか」
「えぇ、また被験者全員が互いに互いを喰って終わる結果となってしまいました。残念です」
「もう何度目だ?こんな実験に一体何の意味があるんだ?」
「仕方ありませんよ。この狂った世界を変える為には、もう神の存在しか残されていないんですから」
「本当にそうなのか?そもそもその考えが、間違っているんじゃないのか?」

 まっさらな部屋に、人間いっぱい。神を目指そうとした、人間いっぱい。転がる亡骸。無惨な亡骸。心は見えない。無様な亡骸。
 傍若無人な科学者踊る。上に逆らえず被験者殺す。天使と悪魔が交互に踊る。実は悪魔より天使が異常者。
 空論好きな、首謀者笑う。空想好きな、子猫が歌う。人間なんて、神の雑念。いやいや神が、人間の雑念。
 風化していく人の優しさ。風化していく愛の偉大さ。欲望の為に笑うことしか、人はいつしかできなくなっていった……

「ありったけのカレーライスを持ってこい。今すぐ部屋の大掃除を始める」
 春の訪れを告げる、暖かな風が吹いたような気がした。


  11


「最近頻繁に起こっている精神異常者が起こす怪事件についてどう思われますか?」
 司会進行を務めるアナウンサーにそう質問された私は、胸を張り立派に堂々とこう答える。
「これは多分、どこかの国か組織が人体実験をしているんでしょうね。無理矢理に精神異常者を作り出し、人殺しをさせているんですよ」
 空間が凍り付く。
「何を言っているんですか?三ヶ島さん。いくらアナタでも言って良いことと悪いことがありますよ。頭がおかしくなってしまったのですか?」
 私は、長年たくわえた白い髭を指先でじっくりとイジリながら冷静にこう答える。
「では、あなたはまともなのですか?」
 そこにいた全ての人間がゆらゆらと踊り出した。それまでのことがまるで嘘だったかのように、ゆらゆらと踊り始めた。
 私は、今までのこと全てが許されるような気がした。懺悔するということは、とても素晴らしいことのようだ。やはり神はいつだってやり直すチャンスを与えてくださるのだ。誰にでも平等に、罪の大きさに関わらず、神はそれを与えてくださるのだ。
「では神よ、私にアナタの作り方を教えてください」
 スタジオが笑いと歓喜の渦に包まれた。


  12


 私の罪が始まったのは、あきらがキチガイによって殺された十二年前からだ。
 その日は授業参観だった。今まで何かと理由を付けて参加してこなかった私が、初めて学校行事というものに参加した記念すべき一大イベントの日でもあった。
 あきらはとても張り切っていた。得意の算数ということもあり、積極的に手を挙げ、先生から出される無理難題に必死で答えていた。私はとても満足だった。大学で法医学の教授として働いている私の面子を守ってくれた息子は、本当に親孝行な彼奴だと至極感心をした。
「あきら、ありがとうな。お父さんに恥をかかせないでくれて、ありがとうな。偉いぞ、あきら」
 私はその帰り道、あきらにそう言って賞讃を与えた。あきらは「うん」とだけ言い、私の左手をそっと引いた。もの静かで良い子だ、と私はまたも誇らしくなったのを覚えている。
 しかしその直後、あきらは無惨にも殺害されてしまうのであった。私の目の前で、まだ十歳だったあきらは、何度も何度も腹を刺されて死んでしまった。
 私は何も出来なかった。ただただ無機質な刃物が息子という肉片を貫く所を見ていることしか出来なかった。そんな私に犯人にはこう言った。
「子供に対して何も出来ない気分はどうだ?苦しいか?悲しいか?親なんて糞だ。親なんて役立たずだ。なぁ、そう思うだろう?あきらくん」
 私はただ呆然とすることしか出来なかった。あきらがこっちを見て何かを言っていたような気がしたが、そんなことはもうどうでもよかった。
あきらの腹からはその日の給食で食べたと思われるカレーライスが溢れ出していた。まるで自由を手にした蛆虫のように、神々しく、無様に、溢れ出していた。


  13


 そいつは引き籠もりのニートで、親や世間を憎んでいた。その恨み辛みをぶつける為に、無差別な殺人を行ったということだった。私は激昂した。そんなことの為に私はあんなにもヒドい仕打ちを受けなければならなかったのか?どうしようもない怒りが、私の心をグシャグシャと掻き毟った。
 それに、親の私よりも先に死ぬというあきらが行った最大の親不孝に対する怒りも、私の心を沸々と煮えたぎらせるのであった。私はこれからも生きていかなくてはならないのだ。それなのに息子は、さっさと自分勝手に死んでしまった。苦しみから逃れる為に、その苦しみを私一人に全て押し付けて死んでしまった。
 私は復讐をすることにした。自分と同じ苦しみを、より多くの人間に味わわせることにした。引き籠もりやニート達を狂わせ、周りの人間を殺させることにした。あきらという名前の奴らを狂わせ、親や自分自身を殺させることにした。
 そして、私にヒドい仕打ちをした犯人のように、精神疾患を理由に何の罪にも問われず悠々自適な生活を送っているクズ共を、実験材料とし、いたぶり、極限まで苦しめ根太やしにすることにしたのだ。
 私は、即座にこの計画についての論文をまとめ、世界中へと発信した。すると、この私の計画を世界の頭脳たちは絶賛し、私に賞讃の声を浴びせかけた。
すぐさまこの計画は実行に移され、そして、そのお陰で世界中からニートや引き籠もりなどの親不孝者はいなくなり、あきらという最大の親不孝教祖もいなくなり、やっと世界は平和になり、全ての人々ががようやく私のことを神と認めたのであった。

 あきらが死んでからもう十二年か……あきら、お父さん、こんなに大きくなったよ。


  14


「今日未明、無職の父親が、十歳の息子を体罰の末に刺し殺すという残虐な事件が発生しました。その父親は供述で、私は神である親不孝と異常者であるから許しはしなかった、などと意味不明な発言をしており、警察側は、刑事責任能力の有無についても慎重に調べを進めているということです」

 今日も何も無かったのか。テレビからはニュースが何一つ流れてこない。世界で何も起こらなくなってから、もうどれくらいの年月が経ったのだろうか?
「感情なんてものがなければ、人は死にやしない。だけど、感情がなければ、人は生きているとは言えない」
そんな薄型テレビが反逆罪で捕まってから、この世界の歯車は狂い始めたような気がする。
「もうカエルが哭く季節だよ、あきら」
 もうカエルなんていないんだよ、お父さん。それはただのホログラフィーじゃないか。触ってみれば分かるはずだよ。そこには愛も温もりもありはしないんだから。
「ホントだ、可愛いね」
 上辺だけだね、お父さん。本当にお父さんは中身が空っぽだね。お母さんはお父さんのどこが好きになって僕のことを作ったんだろうか?お母さんは何故いつもカレーライスしか作らないのだろうか?お父さんはそれをおいしいおいしいと言って食べるけど、着色料だらけのそれがおいしいはずもなく、僕はいつもいつも反吐が出るほどの満面の笑みを浮かべ上っ面の幸せを振りまくんだ。
「あきら、神様の存在って信じるかい?」
 お父さんがまたいつもの質問を僕に投げかける。
「うん、信じるよ」
 僕は平気で嘘を吐く。
「そっか、じゃあその神様に聞いてみてくれよ。この先この世界はどうなるんですか?って」
 僕は平気で嘘を吐く。
「神様は言ってるよ。いつも通りみんなでおいしいカレーライスを食べれば、きっと世界は平和になるでしょう。ってね」
 お父さんはまたいつものように大粒の涙を流し始める。
「あきら、お前の神様は至極ご立派な方だな」
 僕は平気で嘘を吐く。
「それが神たる所以で、それが僕が僕たる所以だからね」
 母が僕らを呼びにくる。
「お二方、そろそろご夕食のお時間ですよ。今日はあなた方の大好きなカレーライスを作りました。至極喜びなさい」
 僕は平気で嘘を吐く。
「ありがとうございます、お母様」

 カエルがゲコゲコ哭いている。真冬だというのに、カエルがゲコゲコ哭いている。降りしきる雨の中で、僕の心は泣いている。僕の心は泣いている。

 夕暮れ時、民家から漂うカレーライスの香りを嗅ぐと、とても幸せな気持ちになるのは何故だろうか?
 圧倒的な幸福感を消化しきれない僕が、今日もまた神という絶対的な存在を生み出しては忘れていくのは何故だろうか?
 不思議なことに僕はまた、この存在という概念を世界中と共有しハニカんでいる。
 愚かなこととは分かっていても、今日も僕は何かを殺し何かを食し何かを失っていく。
 嘘偽りのない情報なんて、テレビに聞いても誰に聞いても心に聞いても答えてはくれない。
 ここは歪んだ欲望の巣窟だ。神様が踊る、歪みに歪んだ理想郷だ。

「あきら、人参も残さず食べなさい」
「はい、分かりました」
僕は平気で嘘を吐く。


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