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好きなことで一流になる。スノーボードのプロを目指していた私が新潟で飲食店経営者になった話

初めまして。和田 亮(わだ りょう)と申します。

新潟県新潟市で『旬魚酒菜 五郎』や焼肉バル『焼NIQ』などの飲食店を展開する、株式会社イデアルを経営しています。

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2002年に『五郎』の経営権を譲り受け、その後店舗展開する過程で現在の株式会社イデアルに改組しました。今年で創業20年目。

今では多数の飲食店経営を手掛けています。しかし実は、若い頃から飲食の世界に夢を抱いていた訳ではありませんでした。

ざっくりかいつまむと…

・東京で生まれ、高校時代は三帖一間のアパートで友達と共同生活
・両親を反面教師に「好きなことで生きよう」とスノーボーダーを目指す
・新潟へ移住し、飲食店経営者の道へ

まずは第1弾として、『和田亮』とはどんな人間なのか?について知ってもらえる内容を書いてみたいと思います。

最後まで読んでいただければ幸いです。

転校を繰り返し、周りに気を遣いがちな子どもだった

新潟出身と思われることも多いのですが、実は生まれは東京都新宿区。

両親ともに学校の先生だったため、転勤の都合で高校までに東京都内や埼玉県へ4回ほど引っ越しました。度重なる転校の影響もあってか、周りに気を遣ってばかりの少年だった記憶があります。

小学生の頃は、水泳・ピアノ・英語など、多数の塾や習い事に通う日々でした。

今となってはありがたいことだったと思いますが、当時はどうしても「やらされている」という感覚が強かったのも事実。

どれも自分の意志で始めたものではなかったし、塾に通っている友達も周りにほとんど居なかった。

だから、「みんなは友だちと遊べるのにどうして自分だけ?」という不満を抱えながら過ごしていました。

三帖一間のアパートで、友達3人と共同生活

中学生になると人並みに反抗期を迎え、今まで遊べなかった反動もあって友人たちと遊び歩くように。自宅にはほとんど帰らず、友達の家を渡り歩くような生活でした。

その頃に憧れていたのは、マンガ『迷走王 ボーダー』の世界。

​バブル景気の真っ只中。羽振りのいい男たちと、派手に着飾る女たち。誰もがそれなりの金を持ち、眠らない街は華やいだ、そんな時代…。明日食う金? 持っちゃいない! ルールや常識? クソくらえ!! 男・蜂須賀、自由人。久保田、木村とくわわって、“ボーダー”たちは、真っ正直に今日を行く!!

双葉社

当時は両親が教師をしていたこともあり、家にも学校にも先生がいるような毎日。「とにかく1日でも早く自立したい」と思っていた自分にとっては、まさに憧れの世界。

この漫画に触発されて、高校時代には新宿で家賃8千円のアパート(三帖一間・トイレ共同・風呂無し)を借りて、仲間と3人で暮らし始めました。

もちろんそのためにはお金が必要です。冬休みや夏休みを利用して、いろんなアルバイトを経験しました。中学後期から高校時代は、ちょうどバブル期のど真ん中。

アルバイトを通して、自分でお金を稼ぐことの楽しさを覚えていきました。

それと同時に「自分の頑張り次第で生きていけるんだな」ということも、何となく実感するようになります。

「好きなことを生業にしたい」両親への反抗心からスノーボーダーの道へ

一緒に住んでいた仲間3人もそれぞれの道へ。

私はというと、大学に進学して一般企業に就職するという道は全く頭にありませんでした。中学・高校の頃からずっと考えていたのは、絶対に独立して「自分の好きなことで生業を立てる」ということ。教師である両親の生き方は、当時の僕にとって「レールに乗って窮屈に生きている」ように見えました。そんな両親とは反対の生き方をしたい、と感じていたのかもしれません。。

そんな経緯で、何かで一流になりたいという強い想いを持っていました。それと同時に、都会の喧騒を離れて自然とともに生きたい、という気持ちが大きくなっていました。そこで、16歳の時に始めたスノーボードでプロを目指すことに。

当時はスノーボードがまだ世の中に広く認知される前。今では考えられませんが、スノーボード自体を知っている人が少なかったんです。スキー場では「何のスポーツですか?」と珍しがられるほどでした。

まだ競技人口も少なく挑戦しやすかったことと、これは絶対に面白いし流行る!という確信があり、プロスノーボーダーの道へ進むことを決意します。


人生の転機。『五郎』に出会い、飲食業界の一流を志す

アルバイトをしながらスノーボードに打ち込む日々が続きました。ある時、苗場スキー場でのアルバイトをきっかけに、20歳で新潟へ移住。新潟に住み始めた当時は、韓国クラブで働いていました。ここで働いている際、調理長に「こっちに仲間いないだろう」と飲みに連れて行ってもらうことに。

その時に行ったお店が『五郎』(現在の「旬魚酒菜 五郎 古町店」)でした。

その頃、『五郎』の経営者だった西山一栄さん(通称ごろうさん)とは、実はスノーボードの大会でも上位を争う仲でした。私より22歳も年上(当時42歳)で、バリバリスノーボードをしていたごろうさん。人としての強い魅力を感じて、よくお店に飲みに行く常連になりました。

そんなある日、たまたま人が足りないとのことで『五郎』でアルバイトをすることに。お客様に自分が作った料理を提供したところとても喜ばれ、帰りがけに「美味しかった、また来るね!」と声を掛けられたのです。

そのとき、嬉しさと同時に自分の中で何かビビッとくるものがありました。すぐさま当時勤めていたバイト先を辞めて、『五郎』に入社。

当時はお金も無かったため、昼は別の仕事をしながら夜は『五郎』で働くダブルワーク生活。そんな24歳の頃、スノーボードのカナダ合宿でケガをしてしまい、スノーボードで生計を立てることは断念。引退後は飲食店で上り詰めようと、気持ちを切り替えました。

スノーボードで一流になる、という夢は道半ばで途絶えてしまいました。しかし「勝たないとお金にならない」という姿勢は、今の仕事観のベースにもなったと思います。

正直なところ、その頃まではいろんな仕事の道を考えていました。飲みに来たお客さんから会社に誘われることもありましたが、一流の会社ではどうしても学歴・経歴がネックに。

でも飲食業の場合は、学歴に関係なく実力次第でお客様を喜ばせることができる。

そして人とコミュニケーションを取ることが好きな自分にぴったりだなと思い、飲食の道でやっていこうと心に決めました。

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22歳のころ、常連様と。この頃は夏で毎日朝からサーフィンしてたから真っ黒


10年お世話になった『五郎』を引き継ぐことを決意

20歳で『五郎』に入ったころ、ごろうさんに言われた言葉があります。

「お前には才能がある。経験も才能もあるけど、唯一足りないのは信用だ。ひとつのことを長く続けてないだろう。お前の才能は認めるけど、信用がついたときにさらに強くなるんじゃないか?ひとつの仕事を長く勤めるのも、信用のひとつだぞ。」

確かにそれまではスノーボーダーを目指す傍ら、様々なアルバイトを転々としていました。そんな自分に居場所を作ってくれた『五郎』で、一途に働いてみようと思いました。

20歳から『五郎』で働きはじめ、24歳で店長を任されたのですが、29歳になる頃に卒業を考えはじめます。

「30歳になったら。10年間お世話になった『五郎』を卒業する。これまでに貯めたお金で世界中を回って気に入った好きな土地でレストランを開こう」

そんなことを思い描くようになりました。

『五郎』を卒業することは約1年ほど前に伝え、一度はOKしてもらいました。しかし、辞める半年前に社長から「お前が抜けた後の代わりがいないから、お店を引き継がないか?」との提案が。

戸惑いつつも、ありがたいことに自分を信頼して着いてきてくれるスタッフが多くいたことも事実でした。

悩んだ結果、自分が社長になってからも世界は周れると思い、30歳のときに『五郎』を引き継ぐことになりました。

30歳、独立した日に撮った写真


飲食業界の“当たり前”を覆す。お客様の笑顔第一の店舗経営  

もともと『五郎』では、原価率を厳しく言われていました。

しかし、お店を引き継ぎ独立が決まってからは、怒られることを覚悟で良い食材をとにかく安い値段で提供していく方針に大きく転換します。

正直大きな決断でした。でも、これが功を奏してお客様の口コミで瞬く間に大繁盛!原価率を無視したのに、来店者数が増えて結果として原価率が以前より良くなるという経験をしました。

今の飲食業経営は、コストを理由に本当に大切なものがおざなりにされているようにも感じます。一番大切なものを利益(お金)だけにしてしまうと、結果お客様を悲しませるお店が増えてくるのではないでしょうか。

安易な知識や経験でお店を出店しても、お客様には何も感動がおきません。そこにスタッフのたゆまぬ努力や揺るぎない知識、豊富な経験があってこそ、初めて感動できるのだと思います。

料理は良い食材をなるべくわかりやすくシンプルに。また安い食材はスタッフの技術を高めて手間暇かけて提供する。利益よりもお客様の笑顔を優先して『多くの社員・良質な食材・こだわりの厨房設備や家具』を用意する。

その結果、お客様に集まっていただけるお店になると考えています。

私の優先順位は、1位はお客様の笑顔・2位はスタッフの笑顔・3位が利益。当然、お客様の笑顔だけがあってもスタッフが不満足だったり、利益が出なければお店は継続できません。そのバランス取りこそ、経営者の腕なのだと思います。

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コロナ前(’2019年)スペインのバスク地方へスタッフと研修に


新潟に無かった「本物」を提供し続けたい

『五郎』の経営を30歳で譲り受け、その後、株式会社イデアルを立ち上げて今年で創業20周年。オイスターバー焚火料理を出すお店ふわふわパンケーキのお店など、今まで新潟に無かったお店を手掛けてきました。

私がイデアルで実現したいのは「本物でありながら、新潟に今まで無かったお店を創ること」です。

最初からその想いで走ってきたというよりも、僕自身がいろんなことに挑戦してみたかった。そしてお客様から「ありがとう」と言ってもらううちに、新潟にはまだ存在しないお店を作りたいという想いが強くなっていきました。

そのために大切にしているのはまず自分がワクワクするかどうか。データだけではなく、自分の肌感を頼りにしています。

直近では、「薪火料理」のお店「薪火料理 FIREPIT」を万代に出しました。

きっかけはコロナ前にスペインのバスク地方で出逢った、すべての料理を薪火で作って提供するレストラン。本当に感動しました。

1番新しいけど原始的。primitiveな薪を使ったお店。

自分が出逢った感動と本物の料理を提供できるお店にしたくて、常に進化、挑戦しています。

流行りにとらわれず、本当に美味しいもの、ワクワクするものを提供したい。今までに無かったけど、あったら行ってみたい。そして、美味しい料理が食べられる。

そんなお店を創り続けたいと思ってます。

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

引き続きお店や会社のことをnoteに記していきたいと思っています。ぜひチェックしていただければと思います。どうぞよろしくお願いします。

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