SAAB900。その助手席の女性、通り過ぎた街。(2)
この16Sとの出会いのあと、無事気に入った1台目を購入し、そのクルマとの思い出も沢山あるけれど、乗り継ぐことになった2代目の16Sにまつわる話を、ここではしていきたい。
自分にとって、クルマの助手席に座る人は、どういう人だったのだろうか。人によっては家族だったり、友人だったり、もちろん彼氏や彼女だったり、仕事でクルマを使うのならば、上司だったり、その誰もが大切な人だとは思うのだけれど、自分にとっては、ひとつの言い方として、「大切な女性」が助手席に座ることが多かった。大切な女性は、もちろん彼女だったり、でも時には家族だったりするのだけれど、その辺りのことについて少し思い出してみたい。
30代の頃、何人かの女性とお付き合いをさせてもらった。その女性たちとどこへ出かけるにもSAAB900でのデートだった。20代の時も、40代の時もクルマを持っていたけれど、30代での彼女たちの思い出は、今ではどれも懐かしく、切なくなるもので、本当に「大切な女性」たちだった。
その中でも、30代のSAAB900の助手席に最もふさわしい女性と思えてならない人がいる。32の頃、友人が主催する誕生日パーティーに参加して出会った清水さんという4つ年上の女性。背が高くて、ショートカットで少しふくよかな感じで、初めて会った時には、ほとんど話をしなかったけれど、「彫金師 清水麻美子」という名刺をもらい、自分は好印象だったし、その彫金師という仕事に興味を持ったのだろう。お互いの仕事が終わって帰宅後、寝る前にメールのやり取りをしているうちに、何回かデートをすることになって、正式にお付き合いすることになった。彼女は、自分と付き合う前に、他の男性から強引な感じで予定を一方的に入れられてデートをしているというようなことを話していた。すごく嫌という訳ではなさそうだったけれど、なんとなく自分と会っている方が楽しそうな感じだった。そういうこともあり、自分も押しが強いが、少し自信を持って告白出来たのだろう。
清水さんは彫金師だった。ジュエリーデザイナーとも言える仕事をされていて、小岩の自宅に工房を持っていた。自分は彫金師という職業の人と初めて出会ったので、その自宅の工房の様子に、とても関心を持ち、いつも彼女が作業している後ろ姿を眺めては、細かそうな作業だな、とか、指先の感覚がとても繊細そうだ、とか感心して、お互い何も喋ることなく、作業する清水さん、その様子を後ろから静かに眺める自分という不思議な空間の中で、時を過ごすことも多かった。例えば、工房見学に来たお客さんに、今は何をしています、という説明をする感じは彼女には一切なかった。あくまで静かに自分の手先に集中していた。彫金師の仕事を、そういった感じで知れたのは、とてもよかったような気がするし、どこかにデートへ出かけるよりも、作業をする彼女を静かに見つめることの方が、自分は好きだった。
清水さんは女子美術大学出身で、染物を専攻していた。卒業後はデザイン会社だったろうか、就職したみたいだったけれど、その染物の技術を活かしてという感じではなかったような話をしていた。あと、一度結婚をされていて、その時の新婚旅行の写真も見せてもらったけれど、あまり楽しそうではなかった。比較的早い時期に離婚してしまったようだった。
その後、手に職をつけようと思ったのだろうか、彫金師になるために、イタリアのフィレンツェだったろうか、とにかくイタリアに留学して、彫金の技術を学んだらしい。年に一度、神楽坂のギャラリーで個展を開き、ホームページに作品を載せて、細々と、といったらちょっと違うかも知れないけれど、あくまでもマイペースで、自分の作品の顧客を増やしているようだった。
まだ付き合う前だったろうか、彼女との最初の頃のデートで、自分のクルマで銀座に夕食を食べに行ったことがある。昔の彼女と行ってとても美味しかった京都のおばんざい屋さんの「みくら」に行きたかったのだけれど、何を間違ったのか、三越の裏の老舗洋食屋「みかわや」(今は再開発で三越新館にお店が移ったらしい)に入ってしまった。ステーキをいただいたと思うのだけれど、とても美味しいお肉だったのに、合わせた赤ワインで、彼女とのおしゃべりも頑張ろうというテンションにもなって酔いがまわり、泥酔して、彼女に介抱してもらう始末。一生懸命介抱していたあの時の彼女は、何を思っていたのだろう。困った人。それもあったかも知れないが、そんな、少し「抜けている」自分に、もしかしたら好感を持ってくれたのかも知れない。押しが強いが、空回りした自分が滑稽だけれど、そんなに嫌いではないという出来事を苦笑しながら思い出した。
どうして、清水さんが、自分のSAAB900の助手席にふさわしい女性かと思った話のひとつとして、そのファションセンスが挙げられる。あるクリスマス前の休日、ふたりで丸の内に再開発されて新しくなった丸の内ビルディング、通称「丸ビル」にクルマで出かけた。彼女は上質な生地のブラックコートにパンツスタイルで、ショートブーツを履き、あまりフェミニンな格好を好まない人だった。手袋もイタリア製で、手にはめる時、キュッと音がしそうな、薄手のやはり上質そうな物を身につけていて、そのどれもが特に有名なブランド品ではなさそうだった。それもよかった。SAAB900のボディカラーはブラック、自分の当時のショートコートもブラック、ブラックで統一というと、あまりおしゃれな感じが伝わらないかも知れないけれど、やはり、丸ビル界隈の街の雰囲気の中、レンガで舗装された通りにクルマをゆっくり走らせている時には、まるでイタリアのローマか、フランスのパリでのドライブデートを楽しむふたり、と言いたくなってしまうようなシーンだったと思う。
丸ビルでは、当時、最先端というより、本当に上質なものを扱うブランドショップがテナントとしてあって、いくつかのお店を回って、彼女からのクリスマスプレゼントを一緒に探した。その中のお店で「吉田カバン」の高級ラインを扱うショップがあり、ショーケースをふたりでのぞいていると、自分は、ブラウンの長財布とコインケースが目にとまった。しぼが入っていて、ダークブラウンではなく、少し淡いブラウン。その財布に、とても心を惹かれた。彼女にどう思う?って尋ねたら、彼女も興味がありそうで、なかなかいいね、と言っていた。ショップの店員の方にショーケースから出していただき、商品の説明を受けると、その財布はエルメスと同じ工場で作られていると教えてくれた。そこにも一流な品を感じて、実際手にとってみた感触も上質な皮であることが自分にも伝わる品だった。ほとんど迷うことなく購入を決めて、長財布とコインケースを彼女にプレゼントとしていただいたけれど、価格は3万くらいだったろうか、そんな高価な財布を持ったことがなかったので、素直に嬉しかった。実際かなり長い間、そのふたつの財布は大切に使わせていただいた。
そして丸ビル前のレンガ道に駐車していたクルマに戻ってみると、駐車禁止のステッカーをまさに貼ろうとしている警官がいて、買い物をゆっくり楽しみ過ぎてしまったのだろうか、素敵なプレゼントを贈ってもらったこともすっかりどこかに忘れてしまい、自分は猛ダッシュでクルマに向かい、すみません!今すぐ移動させます!と警官に謝り、彼女に助手席に乗ってもらい、慌ててクルマを走らせた。間一髪セーフだったのだけれど、その俊敏な動きが、彼女にとっては面白かったようで、あなたがあんなに慌てた動きをしているところを見たのは初めてだよ、と面白そうに笑っていた。どうも彼女とのデートでは、どこか滑稽になってしまう自分がいて、まあ、そんなところに、好感が持てるということもあったのかも知れないし、彼女と長続きした理由だったのかな、と懐かしく思い出される。
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