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『俺が忘れるからいいよ』(#日向荘の人々 / 連作短編集④)
※目安:約1万文字
幼稚園で初めて祝われたお誕生会で
「大きくなったら何になりたいですか」
と聞かれ、俺は
「ぼくは、おおきくなったら、お母さんになりたいです」
と、元気良く答えた。
毎月園全体で行われるお誕生会では、四歳から六歳を迎える子どもたちがお祝いされる。七月のお誕生会は、 七夕祭りと一緒に開催された。そこで俺が発した言葉が、あれだ。他の学年園児や保護者はささやかにざわめき、担任の先生は「お母さんみたいに、先生になりたいのかな?」とフォローしてくれた。
「ちがう。お母さんになりたい」
そこまでこだわっていた理由は何なのか、俺は先生のフォローも断り、家に帰れば母から「恥をかかされた」とこっぴどく叱られることとなる。大井家はそんな家庭だ。
俺、大井崇と、二歳年上の姉聡美、そこから更に三歳年上の兄芳雄の三人兄弟。両親共に教育者。にもかかわらず家での母の役割は昔ながらの古き良き母親業。それが重労働だったのか、流石に働きながら三人の子育ては無理だと判断したのか、俺が生まれたタイミングで母は教員を辞めたそうだ。とはいえその後も別のかたちで教育関係の仕事をしながら母親業を続けていた。これからの未来を背負う子供たちを導く大人の割に、古い体質を頑固に持ち続ける家系。
だからだろうか『お母さん』という役割について子供ながらに何か感じるところがあったのかもしれない。
忙しない毎日はどんどん過ぎ去り、中学生になる頃には、そんな昔の出来事は何となく忘れていた。
「芳雄兄ちゃん、志望大学決めたらしいよ」
「へぇ」
「やっぱり国立の理系だって!」
「へぇ」
「崇は何の先生になるの? 私は英語の先生。中学校の」
姉は英語教師を夢見つつ、でも周囲の環境に流されやすい性格でもある。今は中学生だから中学の英語教師になりたいのだろうが、高校生になったら高校教師になりたいと言い出しそうな雰囲気だった。
「僕は数学か社会」
一学期の成績が良かった順にそう答えた。
「数学と理科で迷うならわかるけど、数学か社会って!」
姉は、理系か文系かはっきりしてよと言い足して笑った。
それ以前に、教師になるのを大前提とする異質な家庭内会話のほうが可笑しいが、俺たちにとっては小さな時からこれが当たり前で、疑問など持ったこともなかった。だからこそ幼稚園で「お母さんみたいな先生になりたいのかな」と聞かれた時「ちがう」と答えたのだと思う。その時の俺にとって、先生になるのは当たり前だったからだ。
「そうだ崇、社会科にしなよ!」
「なんで」
「お母さんが国語で、お父さんが数学。お兄ちゃんが理科で私が英語。最後に崇が社会科の先生になったら大井家で学校作れるでしょ!まだ中一なんだし、目指したい放題じゃない?」
「……」
そんな単純なものじゃないのでは、と文句を言えば「言うのはタダ。夢も希望も冗談もないのね」と妙な捨て台詞を残して自室へ行ってしまった。
目指したい放題。科目だけだろう?今思えば狭すぎる選択肢だが、この時は教師という枠組みを外れる事なくされる会話に「全然目指したい放題なんかじゃない」などと気づく思考回路はなかった。
二年になって学級委員長になると、褒めてくれるとばかり思っていた父は少し不満気だった。
「崇、おまえクラスの学級委員長になったそうじゃないか」
「はい」
「今年は、クラス委員にならないほうが良かったんじゃないのか」
「え?」
「あの学校は、委員をやっていると生徒会役員に立候補できないのだろう?」
「あ……」
「今どう行動するかは、目標を確認した上で少し先の事を読み、逆算して決めなければいけない。お前は少し詰めが甘い」
そういう父は、校長になることを教育人生の最終目標として日々を送っている。現在は公立高校の副校長だ。
「……すみません」
「生徒会長をしていれば実績になるのに勿体無い。高校受験に向けて、それに匹敵する別の活動を増やしなさい。芳雄は小さな頃からもう少し計画的に物事を見ていたぞ」
「……はい」
すぐに兄と比較されるのは、慣れてはいたけど面白くなかった。でもこの頃既に俺の思考は『父ならどうするか』『芳雄兄さんなら?』に、すっかり囚われていたから、このモヤモヤする気持ちが何なのかもわかっていなかったのだけど。
「失礼します……」
学級委員長になる事で叱られるなんて思ってもいなくて、両手をぎゅっと握りしめたまま自分の部屋へ戻り、部屋の扉が閉まる音が耳に入った瞬間やっと息を吐き出せたような気持ちで力を抜いた。
二学期最初の委員会が終わって教室に戻ると、教室にはまだ数人の男子が残っていた。
「あっ、大井だ!」
「やべ、委員長じゃん」
俺の姿を確認すると、あからさまに荷物を片付け始める。俺はこう見えて要領が悪いし、出来もそんなに良くない。ただその要領の悪さが真面目と捉えられることがあったり、家庭環境とか見た目とかの情報によって必要以上の期待をかけられていることも多い。だから、期待を裏切らないように、取り繕う努力だけは怠らなかった。
「委員長、谷センには黙っててくれよな!」
谷センとは、谷橋先生。短縮形はどうも苦手だが、担任のことだ。
「え? あ、ああ」
……何を?
記憶を一瞬前に戻してみる。バタバタと片付ける荷物の中に、学校へ持って来てはいけないものでもあったのだろうか。残念ながら俺には気づくことができていなかったが「見えてなかった」「わからないから言いようがない」などと言うこともできなかった。意外とぼーっとしてるんだな、なんて思われるのが怖かったからだ。周囲が俺に持つイメージから現実を下げてはいけない。どこにいても安定的な高い評価がないと、大井家の男子として恥ずべきことだと教えられているからだ。
「さすが委員長!」
「じゃあな!」
俺は、今起きた事を何も理解できないまま一人、教室で立ち尽くしていた。
俺は、人が思うほどしっかりした人間じゃない。頭も良くないし、うっかりミスだって多い。だからそれをカバーするように、学校から帰れば勉強して、自分の取り組んだ成果物は最低三回は見直しをする。人並みの結果を出すためには意外と体力と精神力を消耗する。疲れはするが、手を抜くと信用を失いかねないから、続けるしかない。
でも何か違う。確かに抱く違和感は的確な言葉にはならないまま、ただ日々は流れていく。文武両道、高校、大学、教員採用……全て親の期待には添えなかった。就職先に関しては自分の判断で教員採用試験へ出願せず、勝手に公務員試験を受けた。
役所勤務は自分に向いていると思うし、さまざまな生活の基盤となる部分に携われるという点では、個人的に地域に寄り添えている気はしている。でも、やはり何かが違う。今は特に縛られるものもなく、仕事にやりがいを感じているはずなのに、最近ずっとどこか満たされないモヤモヤを抱えている。そしてまた、その感覚も上手く言葉にできないままでいた。
「大井くん、パソコンの調子がおかしいんだけど、ちょっとみてくれないかな」
「システム詳しくないですけど……」
「いいよいいよ、ちょっとお願い」
一応ソワソワと期待する職員に導かれるように、調子の悪いパソコンの様子を見てみるが、そもそもソフトの不具合なのか、パソコン本体のエラーなのか、ネットワークで何か問題が起きているのかの区別もわからない。ひと通りパソコンの様子は確認したし、システムアクシデントの際投げられる専門部署があるのだから、そこに問い合わせればいい。俺が対応できなくても特に問題はないだろう。……そう思っていたのに。
「……すみません、私で良ければちょっと見てみましょうか?」
今のやり取りを見ていた別の職員が声をかけてきた。
「え? 大井くんに聞いても分からないって。これなんだけどねぇ、わかるかい?」
「あらら、意外。大井さんでも無理だったか。システム部に連絡するの億劫だなぁ、わかるかなぁ」
意外、とは。仕事ができる奴だと思ったのに期待外れ。そう思われたのだろうか。
残念ながら俺はメカに弱い。でもそれを知られると信用を無くすと思っていたから、トラブルは人知れず自分でネット検索してすり抜けてきた。だからと言っては何だが、人のハプニングまで請け負える能力など本来ない。正直、自分のトラブルは検索するなり専門部署へ問い合わせるなりして自分で解決してくれたらいいのに、とさえ思う。
俺は周囲が思い込むほど、なんでもできる人間ではない。言われたことをやり終える責任感はあると思うが、それ意外は、もういっそ何も期待してくれない方が気が休まる。
こういう小さなモヤモヤが積み重なって、人と関わるのがストレスになり始めている自分にも気づき始めていた。
そんなある日、九月の連休最終日のことだった。何気なくテレビをつけたままにしてレシピアプリを眺めていたら、夕方の番組の特集である起業家が取り上げられている声が耳に入った。改めて画面をしっかりと見る。なんだこの異質な演出は。
『女性は結婚したら主婦でいることが大前提で、母として家事をすることが当たり前。母なんだから、まず子育てすることが当たり前。そんな当たり前に疑問を持ちました』
へぇ。うちの親がこういうのを聞いたら、何て言い出すかな。
『やりたい事を我慢しないで、お母さん自らが自己実現を果たし生き生き暮らすこと。それが子どもにも良い影響になるし、家庭を明るくさせるんです!』
……成功者だから言える事だよな。そんなのは結果論だ。
テレビの中では女性起業家が周囲から関心の目を向けられたまま喋り続けていたが、内容は脳を通さず耳をすり抜けていくだけだった。自己実現か。そんなの男とか女とか関係なく、できている人間が世の中にどれだけいるかなんて定かじゃない。現に俺も、こんなわけのわからないモヤモヤを感じているくらいだ。主婦だということで取り上げられやすいのかもしれないが、こういうのは人類の永遠のテーマなのではないだろうか。性格的な個人差もあるだろうし、その他諸々の属性からくる向き不向きだってあるだろう。第一、何が自分にとっての成功なのかなんて、明確にできている人間の方が少ないと思う。どうせ世の中が言う成功のようなものを誰でも彼でもが手にしたら、それはそれで当たり前になって別の何かを求めるんだろう。だいたい成功の価値観って何なんだ。世の中の評価が絶対だなんて。
……あぁそれにしても、テレビに向かってなんでここまでムキになって反論しているんだ俺は。何かにモヤモヤしたまま自分自身にもイライラして、少し疲れた。
だけど、何者でもなく周囲の期待にも応えらえない自分を、責め立てられているような気持ちになって聞き流す事さえできなかったのは否めない。直接俺が非難されているわけじゃないのに。
「もうテレビはやめよう」
気持ちを切り替えるように頭の中の文字を声に乗せてからテレビの電源を切った。今日の夕飯は何を作ろうか。俺はあまり食の好みというものがない。食べたいものより作りたいものを作って、その成果物を処理するために食う。俺にとって食べるという行為はそんな位置付けだった。レシピアプリを閉じて、最近登録した料理動画チャンネルを眺める。料理研究家が栄養の話などを雑談に織り交ぜながら家庭料理の作り方をレクチャーしているチャンネルだ。なるほど、豚肉はビタミンBが摂れるのか。今日はこの動画に倣って豚キムチでもしてみよう。
「さて、買い物に行くか」
今夜のメニューが決まったところで、まだまだ気になる動画の続きを強制的に遠ざける。大きなトートバッグを手に取って、財布とスマホだけを入れる。このまま動画を見続けていると、データ使用量が嵩む。この夏、それまでレシピアプリだけでおさまっていた情報収集を、なんとなく動画サイトで初めてしまったらすっかりハマってしまったのだ。動画の見過ぎは通信料の増加につながる。特に俺のような最低限のプランを使っていると、いざ使いすぎた時の追加分が半端ない。これは何か、プラン変更を視野に入れた対策を考えないとな。部屋で直接有線契約でもするか? ……そこまではしたくないな。
普段の休みでもそうだが、こういう連休は特に、どう過ごして良いかわからないから余計にモヤモヤは募る。なのに新たなストレスまで持ち込んで、バカらしい。俺は思考を無理やり脳内から振り落とすように頭を強く短く振った。
外に出ると暑さは幾分和らぎ、夕方の風はずいぶん涼しくなって、日も短くなってきていた。さっさと買い物を済ませてこよう。アパートの外階段を降りてくると、ちょうど地上に降りきったところに扉のある102号室からモーター音がきこえた。掃除機をかけている音か? そういえば昨日ハイエースが止まっていた。引っ越し? 102号室、入ったのか。
それから二週間ほど経ったある日の夜、ちょうど夕飯時だった。焼き魚を箸でほぐしていたら、物凄い振動と激しい崩壊の音がして手を止めた。
「地震?」
自分の動きを止めて様子を伺うが、それらしい揺れはもうなく、何事もなかったように静寂に包まれている。一度、念のために外へ出てみたものの、アパートの外観的はいつも通り。街の様子もいつも通り。きっと部屋の中で誰かが盛大にコケたとか、そういうことかなと勝手に納得して夕飯の続きに戻った。
コンコン
次の日。日曜は特にやる事がなく、部屋で本を読んでいたら扉を控えめにノックする音が聞こえた。
「はい!」
慣れないボリュームの声を出す。インターホンのないこのアパートでは自力で返事するしかない。
「すみませんね、日向です。ちょっと良いかしら」
大家さんだった。すぐに本を閉じて玄関に向かった。
「こんにちは、何でしょうか」
「大井さんごめんなさいね。今大丈夫?」
「はい……」
大家さんと……奥の部屋の人だ。ボサボサ伸びた髪とクタリとしたTシャツ、それからハーフパンツとべっこう色のフレームが若干大きそうな眼鏡。いや、顔が小さいのか? とにかく、ほとんど関わりがない向こう隣の住人。俺が出勤する時、たまにゴミ出ししているのを見かけるくらいだから名前すら思い出せない。なんて言ったっけ。
「こちらの鳥海さんの本が! そのね、沢山あって昨日203号室の床が抜けてしまってねぇ。本当にすごいわよねぇ、ほほほ。それでね、お騒がせしてしまったお詫びと、工事の人が入る予定だから挨拶をさせていただきたくて」
あぁ、鳥海。そんな名前だった気がする。床に穴? そんなことになっていたのか。
「昨夜の……そんなに大変な感じでしたか」
大家さんの後ろでソワソワ落ち着かない大きな男を見る。
「あの、ごめんね。うるさかったよね」
そう言いながら少し姿勢を整えて軽く頭を下げた。ひょろっとしているけど、ちゃんと立つとデカいな。
「いや、ここでは幸いそこまで大変な事になっているとわからない程度でしたので。一瞬、直下型地震かと思うくらいの衝撃はありましたが」
「あら、地震じゃなくて良かった」
大家さんはおどけたように小さく笑って、鳥海さんは『地震?』と、一瞬怯えた表情を見せた。それから、簡易工事後は203号室を封鎖して、鳥海さんは103号室に引っ越すことを伝えられた。どこに誰が住んでいても良いのだが、これで二階の住人は俺だけになるようだ。部屋を変えるだけも役所に転居届を出すようアドバイスしようかなと頭をよぎったが、その辺は大家さんが把握済みだろうと言葉を引っ込めた。
「そうですか。工事に引っ越しに大変ですね」
「それでねぇ大井さん、迷惑だったら断ってくれて良いんだけど、お願い、いいかしら?」
「お願い?」
「業者さんがいらっしゃる前に少し荷物を出しておきたいのだけど、コードが色々ついた難しい機械があってね、わたしなんかじゃ変なことしちゃいそうだから、良かったら手伝って欲しいのよ」
「あぁ、機械には疎いですが、お手伝いくらいなら構いませんよ」
「本当? ありがとうねぇ。じゃあ、他の部屋の方にも挨拶してくるから、その後手伝ってもらえるかしら?」
「わかりました」
鳥海さんの部屋は、なるほど床が抜けたというのも頷けるほど大量の荷物があった。決して散らかっているわけではなく、おそらく決まったものが決まった場所に整然と置かれている状態ではあったが。ただその密度が尋常ではない。本棚の本は、どうやって取り出すのか不思議に思うほど詰め込まれ、通販サイトのロゴが印刷された段ボール箱も所狭しと積み上げられている。それでも床が抜けた周辺は荷物が崩れ、おそらくそこから落ちてしまったものもあるのだろう。それらの負担にとうとう床が悲鳴を上げたというところだろうか。これは引越しを機に少しばかり物を減らしたほうがいい。
そんな荷物が多い古めかしい部屋の中で、一際現代らしさを放つエリアが目に止まった。大きなモニタが配置されたパソコンデスク。タブレットや、何かよくわからない道具が置かれ、デスクの下にはネット関連のものと思われる機材も綺麗に並んでいた。ひとまず工事のしやすい状態にするために、抜けた床の周辺の荷物を片付けたり、一部荷物を運び出した。とりあえず俺の部屋の片隅に保管しても構わないと提案すると、大家さんも鳥海さんも喜んでいた。
「でさ、これは有線で光契約してて、そこからこの機材を使って部屋の中にWi-Fi飛ばす。あー、下に引っ越したらコレの移動もしないとな。……えっと、わかった?」
「なるほど……ん? 飛ばす?」
俺の部屋で、工事の間一時的に避難させている鳥海さんのネット関連機材を取り囲み、簡単なレクチャーを受けている。俺自身のネット契約で参考になるかもしれないと考えて、説明をしてほしいと俺が頼んだのだ。が、分かりそうでよくわからない。
「つまり大元としては光契約が必要、と。……えーと、契約って携帯会社みたいな感じなのか?」
「……もしかして、こういうの苦手分野だったりする?」
鳥海さんはちょっと不思議な雰囲気と妙な言動の青年だが、こだわりがはっきりしていて、その分野にはとても詳しい様子だ。バカにするでも弱みを握ろうかというでもなく、真面目な表情で得手不得手を確認してくれている。
「まあ、できれば考えたくない分野ではあるかな」
悪気を全く感じないから不思議と素直に答えてしまった。
「そっか。まあ得手不得手なんてみんな何かしらあるよな。俺は不得手ばっかりたけどさーッヒャヒャヒャ!」
俺が完璧じゃない事に触れるわけではなく、人はみんな得手不得手があると当然のように放った言葉に、なんとなく心が軽くなった感覚がした。
「あんたのネット利用目的に合ったサービスとか予算とか。具体的に決まってたら俺が一緒に選んでやるよ」
「それは助かるが、何から何まででは少々申し訳ない。ざっくり参考意見を聞かせてもらいたい」
動画を心置きなく視聴するためには、スマホのプランを変えるのと有線の契約をするのとどちらが得かという話を振ろうとした時、突然鳥海さんが変な事を言い出した。
「でもさ、結局料理動画見たいだけなら、俺んトコで見たら? 今回いろいろ世話になったし、引っ越してからにはなるけど、好きなだけ接続しに来て動画見ていいから!」
「いや、それは迷惑じゃないか?」
「いいって。俺どうせ毎日ほぼ24時間部屋の中だしさ。契約プランも無制限だし。真夜中とかじゃなければいつでも出入りオッケー!」
「しかしさすがに……あ」
ひとつ名案が浮かんだ。
「こういうのはどうだ」
「ん? どんなの?」
「俺は毎日夕飯時にWi-Fiを借りにいく。その礼として、毎晩飯を作ってやる」
「へ? 飯? 毎晩? いいの?」
「それが迷惑でなければ、俺としてもその方が助かる」
借ばかり増えるのは本意ではない。借りるものがあるならば、すぐそばから返せるものを返したい。だがそもそも俺が飯を作ることなど見返りとして通用するのか。そこに少し自信が持てないが。でも、残念ながら俺にはこのくらいしかできない。
「え、本当にいいのかよ? 貸すって言ったって、無制限のプランだから別に追加料金かかるわけじゃねーし、それなのに飯作ってくれんの? 俺としては大歓迎だけどさ、大変じゃねぇ?」
どうやら鳥海さんには見返りとして受け入れられたようで、それが少し嬉しかった。
「そうは言っても、俺は通信量が助かるわけだから、これはれっきとした交換条件、win-winだ」
「まじか! やったーッヒャーーーッフーー! じゃあ、引っ越しとネット工事が終わったら連絡するから、いつでも来てくれていいよ。ヒヒヒヒ」
そうやって俺はネット環境を手に入れ、見返りとして鳥海さんへ食事を提供するようになった。自分の夕飯を二人分に増量するのは対して苦ではなく、そこに何人加算されても手間はたいして変わらないと思うようになり、なんとなくタイミングの合った住人を次々103号室へ勝手に誘った。2年近く経った今では、気づけば全員揃っての夕飯がほぼ日課になり、今日もそうやって集まった住人と、他人の部屋で俺の作った夕飯を食っている。拓人は全員にWi-Fi接続を許可して、皆それなりに見返りを設定しているようだ。
相当な築年数を誇る昭和アパートは、窓を締め切ってエアコンをつけていても、窓の外の蝉の声が染み込んでくる。夏だ。
「たくあんさん、ほんっとに卵料理好きですよね」
今日は若干大きめサイズのオムライス。それを感情ダダ漏れのニコニコ顔で大人しく食べ続けている拓人に、キツネが感心するかのような声をかけた。
「コドモか」
102は食事に集中するような姿勢を保ちつつも決して鋭くはない声で、彼なりの関心を拓人に向けている。
「卵は万能な食材であるから、好きな人はきっと多いである」
ござるはもはや卵に敬意を示しているようだ。103号室でのいつもの見慣れた光景。
「ござるは万能っていうけどさ、いざ調理しようとなると、そう簡単にいかないんだぞ。さすがにこのふわとろオムライスは難しいだろ? 俺昔挑戦したことあるけど、トロッとさせようと思うと変に生っぽくなってさ、それでも火をちゃんと通そうと思うと固くなっちゃうんだよ。メガネはやっぱすげーな」
「たくあんさんはそもそも料理向いてないんじゃないッスか? そこまで難しくないと思うんですけど。ねぇ?」
「確かに、たくちゃんが料理してる姿なんてイメージできないかも」
「102さんもそう思います?」
そう言ってキツネがケラケラ笑うと、ござるも口を開いた。
「とはいえ、メガネ氏は料理上手だと思うである。毎日毎日ありがたいである」
「まぁ、好きでやっていることだからな」
「メガネさん、もしや餌付けしようとしてます?」
「こういうのを『胃袋掴まれた』っていうんじゃないの?」
「えっ!? 胃袋は内臓なんだから掴んじゃダメだろっ!!」
「ウッ……慣用句であるから、そこは掴めない方が良いのである!」
「はぁ。お前たち、もう少し静かに……」
『崇くんはお母さんになったら、何がしたいのかな?』
懐かしい幼稚園の教室が、一瞬だけ脳裏をよぎって、俺は動きを止めた。そういえば、あれもこんな夏が始まる頃の出来事だったっけ。あの時の俺は、家でみんなのご飯を作る役割として『お母さん』というものになりたかったらしい。もうすっかり忘れていたのに今頃思い出すなんて。
「メガネさん? どうしました?」
「いや、なんでもない。そうだ、今日は食後用にプリンも作っといたぞ」
「すっげーメガネ、そんなのも作れんのかよ!」
「また卵……」
「まぁまぁ、卵は万能であるから」
「実を言うと今日は卵の特売日でな。3パック買ってきた」
「「「「そういうことかよー」」」」
小さなダイニングに、男4人の大きな笑い声がむさ苦しいまでに響き渡る。
『ぼくは、大きくなったらお母さんになりたいです!』
……そういうことだ。
願いは、もう叶えられていた。
「俺、明日はあれ食いたい!」
「あ、僕もッス! あれッスよね?」
「親子丼!」
「カレーライス!」
「キーツーネー! この流れはどう考えても親子丼だろ。とろとろたまごが絡んだ鶏肉と、つゆだくたまねぎのやつ! どうせまだ卵有り余ってるんだから!」
「いえ何言ってるんスか、カレーライスです! 卵が食べたいなら目玉焼きでもトッピングしてください! メガネシェフのこだわり特選スパイスなんスからね。暑い夏はカレーっしょ!」
「んなこと言ってスーパー量販型瓶詰めスパイスのくせに!」
「はぁっ? スーパー舐めないでもらえますか!」
「二人とも落ち着け。飯は逃げないぞ。順番に作ってやる」
「ジャンケンで決めるのはどうであるか」
「……どっちだっていいじゃん」
「はあっ? いっちゃんだって親子丼好きだろー?」
まったく、毎日毎晩にぎやかで幸せな食卓だ。
〈了〉
《俺が忘れるからいいよ・完》
フルボイスアニメ
【連続アニメ小説「日向荘の人々」旅立ち編】
ある冬の1日に舞台を変えたYouTube版では、同じエピソードをメガネくんに密着しながらお届けしております。
小さな時に言った『おおきくなったら』に注目した約6分の動画です。ぜひご覧くださいませ。
ep.201
「俺が忘れるからいいよ」
声の出演
大井崇/Neguさん
大井崇(幼少期)園長先生/EA011さん
上田中真/焔屋稀丹さん
鳥海拓人/韮山蒼太さん
金森友太/成林ジンさん
河上翔/控田まりおさん
【朗報】動いて喋る住人たちを覗き見れるのはこのチャンネルだけ!!
▶︎しっかりしていてリーダーの素質を持ち合わせていそうな風格を漂わせるメガネくんが、そもそもなぜ日向荘に?
公務員としても完璧そうに見えるメガネくんの心の葛藤を、素敵な声(cv.Neguさん)と共に動画にてお見守りくださいませ!【連続アニメ小説『日向荘の人々』旅立ち編 ep.201】はこちらからご覧いただけます
▶︎小説版では描ききれていなかった、住人たちの出会い編と、そのシナリオアイズ版(脚本)もよろしくお願います!
▶︎わいわい楽しい【日常編】もついに完結!
全てをそこに置いてきた!!
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