法政大学の思い出〜『ヘルメットをかぶった君に会いたかった』に触発されて〜
鴻上尚史さんの『ヘルメットをかぶった君に会いたかった』を読んだ。
私は、鴻上尚史さんに10代から20代にかけてとても大きな影響を受けた。というか、単純にファンだった。中学生の時にテレビで第三舞台の芝居がやっていて、あと、イギリス公演のドキュメンタリーとかもやっていて、「天使は瞳を閉じて」の本を買って、それは英訳のスクリプトもついているやつで、それを役者さんのマネをして、家族がいない時に音読していた。「トランス」は、VHSのビデオを買って、やはり家族がいない時に、役者さんになりきってセリフを読んでいた。他の本もたくさん読んだ。お小遣いを貯めて「スナフキンの手紙」をアートスフィアで見た。
大学生になったとき、私は、地元の川崎市でやっていた市民運動から距離を置きたくて法政大学の文学部に向き合うことにした。
というのは、中学生から高校、浪人生までの間、私はその市民運動の“青年ブロック長“なるものになるような参加の仕方をしていた。市民運動で社会を変えようと、真剣に考えていた。
なぜ距離を置きたくなったかというと、小学生の頃から一緒に参加していた同級生の男の子が、二十代になって、その活動で知り合った年下の女の子(5歳差くらい)との間に子供ができて、結婚することがになったと聞いたからだ。その彼以外にも、私が淡い気持ちを抱いていた相手は、一つ違いの年上の活動員と結婚するとことになった。私はその会の人にいわれるままに市民運動の意義を勉強して実践していたつもりだったが、みんなは恋愛していたのだった。ほぼ毎日顔を合わせるような蜜な活動をしていて、みんなの恋愛を知らないのは私だけだった。
法政大学に入学したのは1997年の4月だ。
マンモス校特有の雰囲気になんだかやる気をなくしてアルバイト三昧の1年を送り、たった8単位取れば進級できたのに、1年目で留年した。
ほとんど大学に行かなかった最初の1年の時にしたことといえば、法政大学文芸研究会に入ったことだ。そのサークルのサークルボックスは、学生会館の地下1階にあった。
そこには十畳くらいの縦長の部屋で、壁はコンクリートが剥き出しで、古い団地の玄関ドアのような鉄の扉が付いていた。文芸研究会の扉は、誰かがペンキで塗って、赤かった。中には先輩がスナックからもらってきたというソファ見たいなやつがあって、中央に鉄の天板の一畳くらいの赤いテーブルがあった。隅にはCDコンポがあり、レッドツェッペリン見たいなロックがかかっていたことが多かった。アコギも1個か2個あった。男の先輩たちはみんなタバコを吸っていて、部屋に入るとホルモン焼肉の店みたいに(「孤独のグルメ」の)白煙が充満していた。
学生会館の写真を掲載しているサイト見つけたの引用しておく
法政メモリアルさんだ。
学生会館ってどんな場所だか知ってる?
と問うてくる人に、どんな場所? と聞き返すと、学生運動の頃に建設が始まったもので、当時内ゲバが激しくて建設が完成せず、内装などは施されないまま現在に至っている、ここで暴力が振るわれていた、というものだった。
内ゲバで死んだ人の幽霊が出ると言われ、なんか安直な話だと思った。
安保闘争も学生運動も何も知らない私はポカンとしていた。地元でやっていた市民運動では学生運動のことはあまり語られていなかった(左翼系だったけど)。当事者もいなかった。いても喋らなかっただけかもしれないけど。
私たちは機関紙「白拍子」を年に一回発行し、その「白拍子」を持って合宿をして、合宿で合評会をした。そのほかに、月に一回くらい読書会をして(市民運動の時には「読者会」に参加してA新聞を読んでいた)、そのほかはサークルボックスに入り浸ってお酒を飲み、喋っていた。タルコフスキーとかゴダールとかの映画の話をきくことが多かった。私は「白拍子」に投稿することで、作家になりたいという気持ちを持った。
学生会館は市ヶ谷キャンパスの正門の近くにあったので、正門の外でカメラを構えている公安の人によく写真を撮られた。サングラスをしてマスクをして帽子をかぶっているおじさんたちが立っていた。
中核派のタテ看板がたくさんあって、自治会の人が校舎中にビラを巻いていた。春のよく晴れた日、そのビラが風に舞っていたのを覚えている。青空を背景にヒラヒラ舞っていた。教室にも自治会のビラはたくさんあった。クラスで何かを決めるような時に自治会の人が来たように記憶している。これは鴻上さんの本を読んで思い出したことだ。
私が入ったゼミの担当教授は自治会のビラを手元に持ってきて、生徒に目を通すように促した。
鴻上さんの本に出ていたことは何もなかった。
だが、内ゲバで死んだ人の幽霊が出るという話は、本当だったのかもしれない。当時私は何も知らなくて、幽霊なんて突飛な話だと思ったが、内ゲバがどんなものだったか知っていれば、然りと思ったと思う。
内ゲバも人づてにしか聞かなかったし、自治会も「オレンジプレス」という学生生協の売店の運営をしている人、みたいな印象で、あとは、たまに隣のボックスが「ドイツ研」だったから、深夜までボックスに残っていたらドイツ研が来て、議論することになったという話を後から聞いたり、そんな程度だった。
キャンパスでは学生プロレスが行われ、「法政の貧乏臭さを守る会」の人が、55年館の前にコタツを置いてドテラをきてそこに座っていたりした。
これは切実だなと思ったのは、同じ文芸研究会に入っていた女の子が、学生会館でレイプされそうになったことだった。どうにか逃れたと聞いたが、その場にいて助けてあげられなかったことを申し訳なく思ったことを覚えている。
あとは、どこの大学でもあった話だと思うが、薬物を売られるというやつだ。私は出会ったことがなかった。
鴻上さんの本を読んで思い出したのは、確かに、机と椅子が床にくっついていたことだ。特に55年館の。私はそう記憶している。
大学院に進んでからは、外堀の反対側の大学院棟と、55年館の横にある図書館を往復するだけで学生会館には立ち寄らなかった。後輩たちが仕切っているから、卒業生が顔を出したら悪いと思った。
私は当時喫煙していたが、まだ灰皿が手近な場所にあったと思う。今は皆無なんだろうけど。
大学院で、東大の安保闘争の時に教員だったという先生のゼミに出たことがあった。ゼミは表象について、その時は三十六歌仙絵の表象について論じていて、誰も安保闘争の話をする人はいなかった。穏やかで優しい口調の先生だった。
スイカが普及し始めたとき、私は絶対に使わないと思った。
一応、公安に写真を撮られ自分を市民運動の活動家と思っていたので、足がつくものを自ら利用しようとは思わなかった。
2012年に一般企業に就職して定期券を利用する時、最初は磁気の定期券、その次は偽名と嘘の電話番号でパスモを作った。
しかしその後、紛失した時に偽名と嘘の電話番号では再発行してくれないということを知り、現在は本名と本当の電話番号で登録している。
しかし、PASMOやスイカを避けたところで、携帯電話を持っている時点で、巨大が権力が本気になったら逃れられないのだ。
最近見たアメリカのドラマで、イスラム系のテロ組織が伝書鳩を使っていた。追い詰めたFBI捜査官が鳩に発信機をつけて、テロリストが見つかった。
思うことがたくさんあった、有意義な読書だった。
ぼんやりと思ったことだけど、世界のスチューデントパワーの中でも内部対立、内部抗争を起こしたのは日本だけだったのかもしれない。
集団が内部抗争を起こすのは、暴力団組織みたいだ。鴻上さんの本の中にもあったけど、映画「仁義なき戦い」が1973年にヒットした。ちゃんと勉強しないで言うのでただの雑談のレベルだけれど、日本的なウチワ文化が仲間同士の殺し合いを生むのかもしれない。日本的なウチワ文化の下で、特に強い結束が決定的で重圧的な時、恐怖心がリンチに向かわせるのかも。ラース・フォン・トリアーの映画みたいだ。
最後は雑談になってごめんなさい
ありがとうございました。