あとでメール被送度候😄
先日、俳優の金子あいさんの公演「平家物語〜語りと弦で聴く」https://www.tokyo-np.co.jp/article/177655
(リンクは東京新聞)を観てきた。
平家物語の語りを続けて10年ということで、語りの迫力や繊細な抑揚、表情や視線、その人物が背負っているストーリーが凝縮された一言一言、演技力と簡単に言うことができないような臨場感で、すっと平家物語の世界に引き込まれ、すっかり堪能してきた。
音楽との競演も、西洋楽器と古典物語の出会いを丁寧に演出していて、こちらも良かった。
そんな公演を観たあと考えたことがある。
金子さんの平家物語は、おそらく、私でも教科書などで親しんだ、一般的な校訂の平家物語だと思う。流布している一般のものは、いわゆる語り系の覚一本が底本になっている。
金子さんは、タイムワープしたようにその人物を舞台上に登場させるので、観客の私は、浜辺の那須与一を目撃しているように思う。本物の那須与一が目の前で喋っているわけだ。
しかし、テキストは、覚一本なのである。
平家語りをして行脚していた人たちから物語を聞き集めて書かれたものだ。
金子さんは複数の登場人物とナレーター(小説で言う地の文)を瞬時に演じ分ける。
「〜〜候、とのたもうと、」
などと、聞いていても今のところが会話文だったのだとわかる箇所もある。
その会話文の中に候文が使われているのだ。
候文は、近代以前、日常会話で使われていたのだろうか。
森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45209_30640.html
(リンクは青空文庫)は、一人称の告白文だ。漱石の「こころ」の遺書も同様である。
乃木希典の殉死の翌年、1913年に書かれた。また、「こころ」も乃木の殉死に因縁があり1914年に新聞掲載されている。
(※話が逸れるが、乃木の殉死は、明治国家の国体の創生への責任感が関係しているんじゃないか、漱石も鴎外も日本の近代国家の創設メンバーとして同じ責任感を持っていたのではないか。そのへんは、小森陽一先生の本をよく読んでよく考えよう)
遺書は、書である以上、会話文ではない。
候文がよく使われた上申書は読み上げられる機会が多かっただろうが会話文ではない。
手紙もそうだ。心の内を書き綴ったもので、会話ではない。
定義のようなことを考えるならば、上の立場の人(あるいは別の立場の人)に何か伝えるときに、いったん紙に書いた文章、といったところか。
興津弥五右衛門の遺書は、淡々としているところが最大のポイントだ。
淡々と自害する。
その理由は、舶来の高価な香木の値を、伊達藩の使いの者と争った時に、共に任についていた者と意見を相違して、君主の命に忠実たろうとして同僚を殺してしまった。
君主は弥五右衛門の忠信に恩情を示し、両家にこれ以上争わぬように計らった。
その大恩人の君主が亡くなったので私も死にます。と、淡々と書いている。
語る内容も分量も順番もなにもかも淡々としていて、感情が昂ったり、言い訳したり、冗長になったりしていない。
これが当然のことで、自分の行為は、世間にも当然のことと受け入れられるだろう、よくあることと思われるだろうと思って書いている。
鴎外はその「淡々としている」ことをより演出するために、候文を選んだのではないか。公文書、業務上の文書という感じがより強くするほうを選んだ。
ということは、当時新しく誕生した言文一致の文体は、鴎外からしたら、ウェットな感じがしたのだろうか。
候文はやはり上申書のような、別の立場の人への意志の伝達に使われたと思う。
中世の日本社会で平曲を語った人たちは、平家の物語を一度は「語りのテキスト」にしていただろうか。
ああ、もう新宿についてしまうので、この辺で止める。
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