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第2回 『信長公記』の記述を徹底分析!
桶狭間の戦いは、織田信長3000人 vs 今川義元25000人の戦いであり、
──大軍を小軍が倒すには奇襲しか無い。今川義元が油断したので勝った。
と考えられ、「川越夜戦」「厳島の戦い」と共に「日本三大奇襲」とされてきましたが、
・奇襲攻撃ではなく正面攻撃である。
とする説が登場したり、
・今川義元が見晴らしの悪い狭間(谷間、窪地)で昼食をとるはずがない。
・今川義元が戦いの最中に酒宴を開くはずがない。
と今川義元の油断を否定したり、
・今川義元が討たれたのは、大脇村(豊明市の「田楽狭間」、後の「屋形狭間」「国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地」)ではなく、桶狭間村(名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」)である。
として、今川義元が討たれた場所が2ヶ所になりました。
学者はといえば、「今川義元が隙きを見せて谷間で酒宴を開くはずがない。今川義元は、見晴らしの良い桶狭間山に本陣を置き、昼食をとっている時に襲われ、そこから東(沓掛城方面)へ逃げて桶狭間古戦場伝説地で討たれたか、西(大高城方面)に逃げて桶狭間古戦場公園で討たれたかは、分からない」とまとめています。
──実際はどのような戦いだったのか?
桶狭間の戦いの実態を考える場合、太田牛一『信長公記』以外の良質な史料は、まだ発見されていないようなので、その『信長公記』を徹底的に読んでみました。
※太字は原文に句読点、送り仮名を加え、改行して段落をつけた文(町田本)です。
※【現代語訳】は主語や説明を補った訳文です。
※【解説】は他の古文書の該当部分の記述や諸説の紹介になります。
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