小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第11回【光秀の丹波攻めと攻略後の民政】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第11回【光秀の丹波攻めと攻略後の民政】
信長が将軍義昭を追放したことで、幕府に従っていた丹波の大名たちが信長に対して反旗を翻す動きを見せます。そこで信長から丹波攻めの総大将を命ぜられたのが光秀でした。光秀は難攻不落の丹波を攻め落とし賞賛されます。今回、光秀がどのようにして丹波を攻略したのか探るとともに、のちに丹波一国を与えられた光秀が行った“領民に優しい国づくり”についてお話し頂きます。
要旨
(1)織田信長に反発する丹波衆
・丹波国:有力な戦国大名はいない。足利将軍に従う国衆たちから成る。
・織田信長は、足利義昭を追放したので、国衆たちに反感を持たれる。
・内藤如安(船井郡八木城主)
・宇津頼重(桑田郡宇津城主)
・波多野秀治(多紀郡八上城主)
・荻野直正(氷上郡黒井城主)
(2)明智光秀の丹波攻略
①天正3年(1575年)6月、織田信長から丹波攻めの指示
・5月の長篠・設楽原の戦いで武田軍を撃破=東国の脅威除去
・天下静謐(畿内の静謐)を図るための丹波後略
②その前に越前一向一揆鎮圧(越前~加賀攻め)
③第一次丹波攻略(天正3年6月~天正4年1月)
☆天正3年7月3日「従5位下・惟任日向守光秀」に改名
★第1次黒井城の戦い(天正3年(1575年)11月)
・黒井城(城主・荻野直正(異名「赤井悪右衛門」))包囲
・天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治の裏切り→明智光秀、撤退
④亀山城の築城
⑤第二次丹波攻略(天正6年3月~天正7年8月)
・裏切った波多野秀治の八上城を30以上の付城で包囲
・餓死者多数→開城→波多野兄弟は安土に連行されて処刑
★第2次黒井城の戦い
・8月9日、黒井城(城主・荻野直正は既に死没)
「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」(「佐久間信盛折檻状」)
明智光秀、志賀郡5万石+丹波国29万石=34万石の領主に!
(3)明智光秀の領国経営
奥丹波(福知山城)~黒井城・八上城~口丹波(亀山城)~京都~坂本城
・亀山城
・横山城→福知山城 城主は娘聟・明智秀満(ひでみつ)
「蛇ヶ端御藪(じゃがはなおんやぶ)」(由良川、土師川)
※「蛇ヶ端御藪」の呼称を「明智藪」ではなく「光秀堤」に
転用石(「穢の逆転」で、墓石を上下逆に使い城を盤石にした!)
地子銭(じしせん)免除(免税措置):領民に優しい国作り
→明智光秀、御霊神社の神となる。
・黒井城 城主は斉藤利三(としみつ)
・周山城(比高225m) 天守台あり
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