見出し画像

桶狭間の戦い「時間差二段攻撃説」

桶狭間古戦場の位置に関しては、
田楽狭間「桶狭間古戦場伝説地」(豊明市栄町南舘)説
田楽坪「桶狭間古戦場公園」(名古屋市緑区桶狭間田楽坪)説
田楽ヶ窪(豊明市沓掛町田楽ヶ窪)説
があり、織田信長の行動については、
迂回奇襲説
正面攻撃説
があります。

 江戸時代は、「田楽狭間(旧・大脇村)説」が有力で、補足する形で「迂回奇襲説」が生まれました。

「この役の勝敗を決したる地は田楽狭間にして桶狭間に非ず。然れども桶狭間の名、既に膾炙す。故にこれに従う。」(陸軍参謀本部『日本戦役』)
「後世、この決戦の場所を《桶狭間》と言いならわしているが、地理を正確にいえば《田楽狭間》である。桶狭間は田楽狭間より一キロ半南方にある部落で、この戦いとは直接関係ない。」(司馬遼太郎『国盗り物語』)

 平成時代以降は「田楽坪(旧・桶狭間村)説」と「正面攻撃説」がセットで有力説となっています。

「田楽ヶ窪説」では、
・沓掛の峠の楠が風で東に倒れた。
・織田軍は風を背に受けて進んだ。
という『信長公記』の記述から、「織田軍は、善照寺砦から東へ進んだ=鎌倉街道を通ったので、沓掛の峠の楠が倒れるのを見た」としています。そして、偶然にも田楽ヶ窪(上の地図では「田楽窪」)で今川義元に出くわしたという説です。「ありえない」とは言いませんが、実際に起きるには「邂逅」という神のいたずら(?)が必要かと思います。


「田楽狭間説」と「迂回奇襲説」が否定されたのは、

①今川義元ほどの武将が谷間で休むはずがない。(本陣は山頂にあった。)
②今川義元ほどの武将が戦争中に酒宴を開くはずがない。
③信用できるのは『信長公記』だけで、正面攻撃である。
④桶狭間の戦いは桶狭間村で行われた。大脇村ではない。

という理由です。これに反論したのが愛知県大府市在住の郷土史家・太田輝夫氏で、どう反論したかは同氏の著書『桶狭間合戦奇襲の真実』(新人物往来社 2012/11/10刊)に書かれているのですが、新人物往来社がKADOKAWA 中経出版となり、同書は絶版となりました。
 「時間差二段攻撃説」が広まる前に絶版となったのですが、この説は、口コミで広がり、現在、同書は中古市場で5000円前後で取引されています。

 私の記事も口コミで広まって、スキがたくさんつくといいな。そうなれば、やる気がドンドン出る!(その前にいい記事を書けって話だけど。)

 この『桶狭間合戦奇襲の真実』(¥2000)のダイジェスト本が桶狭間古戦場伝説地で売られていると聞き、買いに行ってきました。

・太田輝夫『桶狭間合戦の実態』¥200
・太田輝夫『奇計 桶狭間合戦の真実』¥500

どちらも薄い本なので、短時間で読めます。

 両書では、「田楽狭間(旧・大脇村)説」の否定に反論し、「田楽狭間(旧・大脇村)説」を支持しています。

①谷間で休むはずがない。→理由があった。
②戦争中に酒宴を開くはずがない。→理由があった。
③信用できるのは『信長公記』だけ。→地元で書かれた本も参考にすべき。
④桶狭間の戦いは桶狭間村で行われた。大脇村ではない。→戦いは最初に桶狭間村で行われ、次に大脇村で行われたので、「桶狭間の戦い」と名付けられた。長篠城に始まり、設楽原でクライマックスを迎えた戦いを「長篠の戦い」というようなもの。

真骨頂は「時間差二段攻撃説」です。

 これは、「織田信長は、太子ヶ根で軍を2つに分け、正午に先発隊が今川軍の先鋒と戦い、午後2時に本隊が油断している今川本陣を奇襲した」とする説です。

 今川軍は、沓掛城から大高城へ向けて進んでいましたが、急にその歩みが止まりました。これは、桶狭間村まで達していた先鋒を太子ヶ根から出陣した織田軍(佐々政次などの先発隊)が襲ったからです。
 この桶狭間村での戦いが始まった時、今川義元が居た場所が田楽狭間(豊明市)だというのです。つまり、谷間ではあったが、軍の動きがストップしてしまったので、仕方なく、そこに仮本陣(休憩所)を急遽設営したとのことです。

 その後、織田信長の「奇計」により、その仮本陣(休憩所)で酒宴が始まりました。その「奇計」とは、「・・・・」です。(ネタばらしは避けます。【ヒント】今川軍には織田信長の顔を知っている人が1人も居なかったが、織田軍では桑原甚内が今川義元の顔を知っていたと『豊明市史』(資料編補2)の付録の漫画本のQ&Aにあります。)
https://www.city.toyoake.lg.jp/2000.htm

 その後、突然、暴風雨となって、今川軍は大混乱。晴れると、織田本隊が太子ヶ根から出撃し、織田信長は南から北へと攻め、桑原、服部、毛利は山の上から攻めたそうです。

 「織田信長は、太子ヶ根(大将ヶ根)を下り、今川本陣を奇襲した」のではなく、

「織田軍(別働隊)は、屋形山(高徳院の裏山)を下り、今川本陣を奇襲した」のだそうです。現在の屋形山は竹藪ですが、当時はどうだったんでしょうね。

ここから先は

645字 / 4画像

¥ 1,000

サポート(活動支援金)は、全額、よりよい記事を書くための取材費に使わせていただきます。ご支援よろしくお願いいたしますm(_ _)m