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小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第8回【光秀の義昭・信長「両属」時代】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第8回【光秀の義昭・信長「両属」時代】

信長は行政を円滑に進めるため京都奉行を配置、その一員に光秀を抜擢しました。光秀は義昭の家臣であると同時に信長の家臣になったのです。将軍義昭は自分が全権を握ると思っていましたが、信長に実権を握られ不満をもちます。今回は、義昭と信長の関係が悪化する原因となった出来事、信長が武将としての光秀の力を認めることとなった越前朝倉攻めなどについて、お話し頂きます。

要旨


1.明智光秀は、足利義昭の家臣であると同時に、織田信長の家臣になった。

・江戸時代は「二君(じくん)にまみえず」(儒教的武士道徳)
・戦国時代は「両属」(2人の主君から給料をもらうこと)もあり。

天下(京畿)政務担当者「京都奉行」
・Ⅰ期(永禄11年10月1日~永禄12年4月1日) 
 宿老・柴田勝家&佐久間信盛+実務担当・蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚
・Ⅱ期(永禄12年4月12日~永禄13年4月16日)
 宿老・丹羽長秀+明智光秀、中川重政、木下秀吉
 ※織田信長は、足利義昭の側近・明智光秀を足利義昭の監視役として利用

2.足利義昭と織田信長の仲が悪くなった。

・足利義昭は、織田信長の傀儡将軍だと感じ始めていた。→関係悪化
・周囲(朝倉義景など)に愚痴を言い始めた。→御内書の濫発
・織田信長の条々(警告書)
永禄13年(1570年)1月23日、織田信長は「殿中御掟追加5ヶ条」(「五ヶ条の条書」)を朝山日乗(日蓮宗の僧侶)と明智光秀へ提示して証人とし、足利義昭もこれに同意した(袖判を捺した)。

●史料:永禄13年1月23日付「五ヶ条の条書」(成簣堂文庫所蔵)
※成簣堂文庫:高橋義雄→徳富蘇峰(国民新聞社)→石川武美記念図書館
https://www.ochato.or.jp/bunko.html
第一条「諸国へ御内書を以って仰せ出さるゝ子細あらば、信長に仰せ聞かせられ、書状を添え申すべき事」(足利義昭が諸国の大名たちに御内書を出す時は、信長に相談して、信長の書状(添え状)も添える事)
第四条「天下の儀、何樣(いかよう)にも信長に任せ置かるゝの上は、誰々に寄らず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事」(天下の儀は織田信長に任せたのであるから、ぎちゃごちゃ言う事はない。誰が相手であっても、上意(足利将軍の意思)を伺う必要はなく、織田信長の判断で成敗する事)
※全文と現代語訳は別記事に記載。
https://note.com/ryouko/n/nd84eedef7132

3.織田信長が武将としての明智光秀の力を認めることとなった朝倉攻め

2月25日 織田信長、岐阜城を発つ。
2月30日 織田信長、申の刻(午後4時前後)に上洛。

朝倉義景は、「この上洛命令は、織田信長の命令であって、足利義昭の命令ではない」として無視し、上洛しなかった。

4月20日 織田信長、朝倉義景討伐のため京を発つ。
4月23日 戦乱などの災異のため、「永禄」から「元亀」に改元。
4月26日 織田信長、敦賀の手筒(天筒)山城と金ヶ崎城を落とす。
木ノ芽峠を越えようとした時、浅井(あざい)長政が反逆
↓【反逆の理由】
↓①朝倉攻めを織田信長が同盟者の自分に内緒で開始
↓②(隠居後の父・浅井久政には)朝倉には恩があった。
織田信長の反応「虚説たるべし」(『信長公記』)
↓「戦場に入りて切りまけ候へば、自害に及び候事、侍の本用に候」
↓  (『大内義隆記』)と言うが、
織田信長は、朽木谷を通り、僅か10騎で京都へ逃げ戻る。
「藤吉郎金ヶ崎の退き口」というが、実は殿(しんがり)は3人!!!
 波多野秀次書状に「金ヶ崎城に木藤、明十、池筑」(『武家雲箋』)
木藤=木下藤吉郎、明十=明智十兵衛尉光秀、池筑=池田筑後守勝正
=「歴史とは勝者の歴史(敗者の武功は消される)」

6月28日 姉川の戦い
 ・明智光秀が参加した記録がない。(足利義昭の家臣だから?)

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