知立城が・・・
大河ドラマ『麒麟がくる』では、今川義元が「岡崎城から出陣」とありましたが、『三河物語』によれば「知立城から出陣」です。(「「神君大高城兵糧入れ」の謎」に『三河物語』を載せておきました。)
※「神君大高城兵糧入れ」の謎
https://note.com/ryouko/n/neb2a891d4cdd
確かに、松平元康の初陣は、岡崎城から出陣して、岡崎城へ帰城していますが、この頃の今川軍の本拠地は、岡崎城から西の知立城へ移っていました。桶狭間で今川義元が討たれなければ、本拠地は大髙城へ移ったでしょうね。
<今川軍の拠点>
吉田城─岡崎城─安祥城┬知立城─沓掛城(尾張)─大高城(尾張)
└重原城─品野城
視聴者には、「知立城」と言うより、「岡崎城」と言った方が通じるのでしょうけど・・・。
知立城は、知立神社と知立駅の中間にあり、現在は公園になっています。
松平元康は、この知立城を拠点に、今川義元の命で三河国平定戦を行いました。(ドラマでは「三河の兵は今川義元にいいように使われている」と今川義元を悪く言っていますが、大大名・今川義元をバックにつけた松平氏が三河国平定戦をしているだけです。ただ、その戦いの回数が多くて辟易しているのを、今川義元の責任だとしているのです。そもそも三河混乱の原因は、松平氏の内部分裂にあり、そこを織田氏や今川氏につけこまれたんですけどね。)
知立城の城主は、知立神社の神主でした。松平元康は、その城主(神主)の娘(三河平定戦の時のお茶くみ)に惚れ、
「お嬢さんを下さい」
と言ったら、
「あんたロリコン? 娘は若すぎるから、もうちょっと経ってから」
と体よく断られたそうです。(個人的には「若い」というより、「いとこ」ですから、結婚はお薦めできません。)天文17年(1548年)生まれですから、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」の時は、13歳ですね。(プロポーズは11歳の時。)結婚は天正元年(1573年)、つまり、26歳の時ですね。(10年以上待たされたのか・・・しかも、この時は正室・築山殿の侍女だったという。)母親は、松平元康の母・於大の方の姉だそうですから、顔が於大の方に似ていたので惚れたのかも?
永見貞英
‖─於万の方
水野忠政┬女子
└女子(於大の方)
‖─松平元康
松平広忠
「嘉祥3年、僧円仁之ヲ開基ス。「神宮寺七坊」の学頭ナリ。玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊ヲ「神宮寺七坊」ト称ス。天文16年、戸田弾正宣光ノ兵火ニ罹リ焼亡ス。」(神宮寺跡碑)
「元亀年中ノ再建ニ係リ、神路山・松智院、玉泉坊、総持寺ト称ス。天台宗ヲ奉シ寺門派ニ属シ、知立神社ヲ管ス。明治5年廃寺ス。」(総持寺跡碑)
石碑の裏には碑文が刻まれています。
ちなみに、お墓は、越前国一乗谷の北の永平寺にあります。(「松平家墓所」(といっても、松平氏の墓はなぜか分散していて、越前藩三代目藩主・松平忠昌らの墓所)ではなく、道元禅師の霊廟「承陽殿」の前。)
※参考記事:愛知教育文化振興会「於万の方」