小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第10回【光秀が義昭を見限ったのはいつか】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第10回【光秀が義昭を見限ったのはいつか】
将軍義昭の家臣であり、信長の家臣でもあった光秀。信長の排除に動く義昭の前途に不安を抱くようになります。光秀が義昭の側近に宛てた手紙には「おいとまをいただきたい」と記されていましたが、年月日がなく、いつ書かれたものか定かではありません。今回は、義昭が信長を倒すために手を組んだ武田信玄の動きをひとつのヒントに、光秀がどの時点で義昭と手を切ったのかを考えます。
要旨
1.曽我助乗(そがすけのり)
★明智十兵衛光秀と曾我兵庫頭助乗(幕府御詰衆)
明智光秀は、「比叡山焼き討ち」の功績により、坂本城と志賀郡を与えられ、「一国一城の主(あるじ)」になったので、足利義昭から離れても生きていける状態になった。織田信長から志賀郡、足利義昭から上山城(久世郡、綴喜郡、相楽郡、宇治郡)を与えられたが、土地問題でトラブルがあったようで、曾我助乗宛の書状には、足利義昭にはお暇を願い出たとある。とはいえ、却下されて、明智光秀の足利義昭と織田信長との両属関係は継続したようである。
①「日付不詳曾我助乗宛明智光秀書状」(「MOA美術館所蔵文書」)
見くるしく候て、憚入存候。御志計候。
昨今は懸御目、快然此事候。就其我等進退之儀、御暇申上候処、種々御懇志之儀共、過分忝存候。とにかくにゆくすへ難成身上之事候間、直に御暇を被下、かしらをもこそけ候様に、御取成頼入存候。次此くら、作にて候由候て、可然かたより給置候間、進入候。御乗に御用にたてられ候はゝ畏入存候。かしく。
明十兵
曽兵公 人々御中 光秀
「見ぐるしく候て、憚り入り存じ候。御志計りに候。
昨今は御目に懸かり、快然、此の事に候。我ら進退の儀、御暇申し上げ候処、種々御懇志の儀共、過分、忝く存じ候、とにかくに、行く末成りがたき身上の事に候間、直ちに御暇を下され、頭をも刮げ候様に御取り成し頼み入り存じ候。次にこの鞍、作にて候由候て、然るべき方より給わり置き候間、進め入り候、御乗習に御用に立てられ候はば、畏み入り存じ候。かしく」
((この鞍は)見苦しい物で恥ずかしいのですが、ほんの気持ちです。
先日はお目にかかれて光栄でした。私の進退について、お暇(いとま、辞任)申し上げましたところ、いろいろと過分なるお心遣いを頂き有り難く存じます。ともかく、将来の見込みが無い身の上ですので、直ちにお暇をいただき、頭を剃って隠居できるよう(足利義昭への)お取り成しをよろしく頼みます。次に、この馬の鞍は、きちんとした方からいただいた物です。差し上げますので、ご乗馬の練習用にお使いいただければ幸いです。)
②「元亀2年(1571年)12月20日付曾我助乗宛明智光秀書状」(『古簡雑纂(こかんざっさん)』)
下京壺底分地子銭、両季に弐拾壱貫弐百文、為合力進之候。公儀御取成以下頼入候付而、如此候。別而御馳走、肝要候。恐々謹言。
明智十兵衛尉
元亀二 十二月廿日 光秀(花押)
曽我兵庫頭殿 御宿所
「下京壺底分地子銭、2季に21貫200文、合力として進り候。公儀御取り成し以下頼み入り候につきて、此の如く候。別して御馳走、肝要に候。恐々謹言。」
(下京の底壺(不明。京都市中京区壺屋町か?)分の地子銭を、2期にわたり21貫200文ずつお力添えのお礼として進呈しますので、公儀(足利義昭)へのお取り成しをよろしくお願い致します。)
2.武田信玄
武田信玄は、足利義昭の意向を受け、織田信長を倒すために出陣し(?)、元亀3年12月22日の「三方ヶ原の戦い」(武田軍25000人と徳川軍8000人の戦い)の前哨戦である「二俣城攻め」の頃、書状を朝倉義景に出している。
★元亀3年11月19日付朝倉義景宛武田信玄条書(「徳川黎明会所蔵文書」)
条目
一 当備逐日任存分候事
付、二俣之地取詰候、落居可為近日之事
一 岩村之城、属当手候之間、人衆相移候事
付、条々有口上
一 此上両様行之事
付、条々
一 如聞得者、織田信長岐阜へ帰、引間へ三千余加勢不審存候事
一 当陣下風聞之事
付、依大坂貴辺御催促如此、信長為当敵動干戈所、御分別之事
一 信長例式謀略察入候間、為可散御疑心、以誓詞申候、従貴辺茂可給之事
付、条々
一 郡上之遠藤、向岐阜なたをの取出早々可築之旨、令催促候、
自其茂同前ニ可被仰越之事
一 至来年五月御張陣之事
一 大坂門徒中蜂起御催促之事
付、長島之事
・「至来年五月御張陣之事」:このまま来年の5月まで近江で陣張っていて下さい→朝倉軍撤退→怒りの『伊能文書』。
★元亀3年11月19日付朝倉義景宛武田信玄書状(「徳川黎明会所蔵文書」)
如露先書候去月三日出甲府同十日当国へ乱入敵領不残撃碎号二俣地取詰候殊二三州山家濃州岩村属味方対信長為当敵動干戈候此所御分別肝要二候為其以玄東斎申候委曲説与彼口上候之間不能具候 恐々謹言
十一月十九日 信玄(花押)
謹上 朝倉左衛門督殿
https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM000967
※信長包囲網:反信長統一戦線。織田信長から「異見17か条」を突きつけられた足利義昭は、御内書を濫発した。その宛先は、反信長の武家(武田信玄、朝倉義景、浅井長政)、寺家(本願寺=一向宗)、そして公家に及んだ? そして、公家を抑えようとする織田信長を明智光秀が止めたのが「本能寺の変」?
3.足利義元との完全決裂
天正元年(1573年)2月20日、足利義昭の言葉を受け、近江国今堅田城(大津市今堅田)に自ら籠城し、石山砦を築いた光浄院暹慶、磯貝新右衛門、渡辺党らを攻撃するため、織田信長は、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆の4人を派遣した。
★『信長公記』天正元年(1573年)
光浄院、磯貝新右衛門、渡辺体の者、内々御言葉を加えられ、彼ら才覚にて、今堅田へ人数を入れ、石山に砦の足懸りを構え侯。すなわち追い払うべきの旨、 柴田修理亮、明智十兵衛尉、丹羽五郎左衛門尉、蜂屋兵庫頭、四人に仰せ付けらる。(【大意】足利義昭は、光浄院暹慶(山岡景友)、磯貝久次、渡辺昌党を今堅田(滋賀県大津市)へ出陣させ、石山砦(滋賀県大津市)を築かせた。そこで織田信長は、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆の4人に攻撃させた。)
★元亀4年5月24日付西教寺宛明智光秀寄進状(「西教寺所蔵文書」)
・通称「明智光秀供養米寄進状」
・氏名は身分の高い順に書かれている。
・この当時の明智光秀の家臣には、明智城落城時の家臣も多いようだ。
千秋形部 二月廿九日 壹斗貮升←剣豪・熱田千秋刑部少輔
井上勝介 二月廿九日 壹斗貮升←長井氏流美濃井上氏?
堀部市介 三月朔日 壹斗貮升
武藤助次郎 壹斗貮升
増位新太郎 二月廿九日 壹斗貮升
可児与十郎 二月廿九日 壹斗貮升←美濃国可児郡出身
木村次郎兵衛 三月朔日 壹斗貮升
中嶋左内 二月廿九日 壹斗貮升
佐藤又右衛門 二月廿九日 壹斗貮升
斉藤与佐衛門 二月廿九日 壹斗貮升←美濃斉藤氏
同 彦次郎 二月廿九日 壹斗貮升←美濃斉藤氏
久世城右衛門 二月廿九日 壹斗貮升←久世丞右衛門。久世荘出身。
遠藤出羽 二月廿九日 壹斗貮升←遠藤出羽守
■喜四郎 三月朔日 壹斗貮升←■ってJISにありますか?
藤田伝七 二月廿九日 壹斗貮升←藤田伝五の弟
恩知左介 壹斗貮升←恩智左近?
清水猪介 二月廿九日 壹斗貮升
中間 甚四郎 三月朔日 壹斗貮升←名字のない中間
以上十八人
右討死之輩命日為霊供令寄進畢仍如件
咲庵←明智光秀の雅号
元亀四年五月廿四日 光秀(花押)
西教寺 御納所
明智光秀らは今堅田城を落としたが、明智光秀の家臣18人が戦死した。明智光秀は、彼らの供養を西教寺に頼んだが、その供養費用として、「中間(ちゅうげん)」と呼ばれる名字のない身分の低い武士にも、他の武士たちと同様に「壹斗貮升」(1斗2升)の米を寄進している事が注目されている。
武田信玄は亡くなったが、彼の死は3年間秘匿された(「武田信廉書状」に「三年喪秘」)ので、まだ生きていると思っていた足利義昭は、自ら出兵し、二条城に入って織田信長に決戦を挑んだ。この時、和議となり、織田信長の使者として細川藤孝が赴いた。
しかし、武田信玄が生きていると思っている足利義昭は強気で、7月3日、槇島(まきしま/まきのしま)城(京都府宇治市槇島町)に籠城した。この時、明智光秀は、織田信長の1武将として7月16日から槇島城を攻めているので、この時には「両属」関係は完全に消えていたといえる。(7月18日、足利義昭は降伏し、室町幕府は実質的に滅亡したが、足利義昭は鞆の浦へ移り、鞆幕府を開いた。)
感想
1571年12月頃(?)、明智光秀は、近所の曽我兵庫頭助乗(足利義昭側近)へ手紙を送り、足利義昭へ暇乞いを申し出る。(「MOA美術館所蔵文書」)
近所:『言継卿記』に「未の下刻より、奉公衆方へ年頭の礼に向かう。道中の次第は、竹内治部少輔、三淵藤英、同弥四郎、一色藤長、曽我助乗、明智光秀(後略)」とある。
1571年12月20日、明智光秀が曽我助乗へ、足利義昭への取り成しのお礼として、下京壺底分の地子銭2季21貫200文と馬の鞍を渡す。(『古簡雑纂』)
この2通の手紙を「同時期に出された物で、足利義昭と織田信長に両属していた明智光秀が、足利義昭を見限り、織田信長のみに所属しようと試みたが、失敗した」と解釈するのは間違いであろう。「同時期に出された物」まではよいが、手紙には、「すぐに足利義昭を見限り、織田信長のみに所属したい」とは書いてなく、「直ちに御暇を下され、頭をも刮げ候様」(すぐに辞職して出家する)とあり、これは、「仕事上でヘマをしたので、辞職し、さらに出家してお詫びしたい」という雰囲気である。
久野雅司氏は下記論文で「光秀は幕府から一円知行によって久世荘一帯を宛行われたとして領有権を主張する。しかし東寺はこれを光秀の違乱として、幕府奉行人の松田秀雄と飯尾昭連に訴え出ている。さらに光秀は元亀二年十二月十日に三門跡領を延暦寺領と称して押領しており、朝廷から幕府へ女房奉書が発給されて違乱停止を求められている(『言継卿記』)。光秀はこれらを義昭から叱責されたようであり、詫びを義昭側近の曽我助乗に宛てた書状で陳べ、義昭への取り成しを依頼している」「これによると、光秀は義昭に「かしらをもこそげ」薙髪する覚悟で詫びを申し入れている。ここで光秀は助乗に取り次ぎ料として鞍を送り、さらに表Ⅱ 76で「公儀御取成以下頼入候」の「為合力」として下京壺底分の地子銭を「両季ニ貳拾壱貫貳百文」進上している。以上の事例を勘案すると、光秀は実際には義昭との主従関係が強かったといえる」としている。これが正しい解釈であろう。「この失敗は、辞職、さらには出家する程ではない」と許されたのであろう。
※久野雅司「織田政権の京都支配における奉行人についての基礎的考察」
天正元年七月以降についても、貞勝は明智光秀と連署していることから、実際には二人体制による共同統治だった(表Ⅰ 57~61)。貞勝については注(2)の拙稿で検討済みなので、ここでは光秀について検討しておきたい。光秀については、注(1)文献の高柳光寿氏・木下昌規氏・早島大祐氏・谷口研語氏によって検討されている。光秀はもともと義昭の家臣だったことから、信長と両属的な関係にあったことが指摘されている。永禄十三年正月二十三日「五ヶ条の条書」において日乗上人と宛所となっていることから(表Ⅱ45)、義昭と信長との仲介を担う役割があったと考えられる。しかし、次の史料4・5の事例から、実際には義昭との繋がりが強かった様子が確認できる。
〔史 料4〕「阿弥陀寺文書」(『大日史』②四五六頁、永禄十二年四月二十五日条)
阿弥陀寺敷地指図并方々寄進分、以御下知仰付由、尤候、弥御建立肝用(要)、相応之儀、不可有疎意候、恐々謹言、
(四九) 久野雅司:織田政権の京都支配における奉行人についての基礎的考察
永禄十二 明智十兵衛尉
六月廿一日 光秀(花押)
清玉上人御同宿中
阿弥陀寺の清玉上人は、同年四月二十五日付けで諏訪晴長と松田頼隆による幕府奉行人連署奉書によって敷地を安堵されている(「阿弥陀寺文書」『大日史』②四五五頁)。光秀は、これに基づいて〔史料4〕で「御下知」を承けて敷地を安堵している。この「御下知」は晴長・頼隆の連署奉書を指していることから、幕府の決定に基づいて安堵状を発給していることが確認できる。ここでは織田政権側の関与は認められない。光秀は元亀元年四月十日に東寺の八幡宮領下久世荘を押妨したが、この時に「彼庄一職為上意被仰付由被申」(「東寺百合文書」『大日史』④二六〇頁)とあることから、光秀は幕府から一円知行によって久世荘一帯を宛行われたとして領有権を主張する。しかし東寺はこれを光秀の違乱として、幕府奉行人の松田秀雄と飯尾昭連に訴え出ている。さらに光秀は元亀二年十二月十日に三門跡領を延暦寺領と称して押領しており、朝廷から幕府へ女房奉書が発給されて違乱停止を求められている(『言継卿記』)。光秀はこれらを義昭から叱責されたようであり、詫びを義昭側近の曽我助乗に宛てた書状で陳べ、義昭への取り成しを依頼している。
〔史 料5〕「神田孝平氏所蔵文書」(『大日史』⑦一九六頁、元亀二年十二月二十日条)
見くる(苦)しく候て憚入存候、御志計候、
昨今ハ懸御目、快然此事候、就其我等進退之儀、御暇申上候処、種々御懇志之儀共、過分忝存候、とニかく(兎に角)ニゆくすへ(行く末)難成身上之事候間、直ニ御暇を被下、かしら(頭)をもこそけ(刮げ)候様ニ、御取成頼入存候、次此くら(鞍)、作にて候由候て、可然かた(方)より給置候間、進入候、御乗習ニ御用ニたてられ候ハヽ畏入存候、かしく、
明十兵
光秀
曽兵公人々御中
これによると、光秀は義昭に「かしらをもこそげ」薙髪する覚悟で詫びを申し入れている。ここで光秀は助乗に取り次ぎ料として鞍を送り、さらに表Ⅱ 76で「公儀御取成以下頼入候」の「為合力」として下京壺底分の地子銭を「両季ニ貳拾壱貫貳百文」進上している。以上の事例を勘案すると、光秀は実際には義昭との主従関係が強かったといえる。また、元亀二年七月に曇華院領の山城国大住荘において幕臣の一色藤長が給人を付けて違乱したことから、信長から光秀と義昭側近の上野秀政に宛てて義昭へ違乱停止を奏上するように書状が送られている(「曇華院文書」『信文』二八九号)ことからも、光秀は幕臣として活動している様子を確認することができる。天正元年二月に義昭が信長に対して蜂起したことによって七月に幕府が滅亡してからは、幕府の政所執事だった伊勢氏などが光秀に配属されており、本能寺の変
の後に秀吉との間で戦われた山崎の合戦では、彼らは光秀軍として出軍していることが注(1)の染谷氏によって明らかにされている。このような光秀の地位を、高柳氏は「近畿管領」と称している。
この貞勝と光秀は拙稿aで指摘した通り当該期においては「両代官」と称されており、光秀が丹波計略によって京都から離れるようになる天正三年まで共同で政治が行われていた(表Ⅰ61)。なお、天正二年(五〇) いわき明星大学人文学部研究紀要 第二十八号五月には原田直政が山城守護に任じられたとされ、以後山城支配に関わるようになる。管轄領域としては、貞勝の発給文書が上京・下京の洛中に分布しており(拙稿b)、直政は表Ⅰ62~65で大和にまで及んでいたことが確認できることから、洛外から山城南部・大和に至る地域だったと考えられる。
「8月14日付細川藤孝宛織田信長書状」(「革島文書」)
条々被仰下之通、何以存知仕候。并御頭書之上、是又遂分別、明智に申含候。此等之旨、可有御披露候。恐々謹言。
八月十四日 信長(花押)
細川兵部大輔殿
「条々義昭の仰下された通りみなみな承知した。並びに御頭書(おかしらがき)の上これまた分別を遂げて光秀に申含めた。この旨義昭に申上げてくれという書状」について、発給年がないが、明智光秀の曽我助乗宛書状と同時期(元亀2年)の書状と見なすのはどうかと思う。「私はこの書状は永禄11年7月、義昭が越前から美濃の信長のところに来った後、そして9月信長が義昭を奉じて上洛する前のものではないかと思っている。そしそうだとすれば、義昭が信長に頼ったことは光秀と藤孝とが謀ってしたことだと『細川家記』にいっていることは肯定されてよいと思われるのである。」(高柳光寿『明智光秀』)
まとめ
・明智光秀が足利義昭を見限ったのはいつか?
・明智光秀が足利義昭の家臣でなくなったのはいつか?
どちらもよく分からないが、織田信長から近江国志賀郡を与えられ、坂本城を建てて「一国一城の主」になった時には、「織田信長だけでいいかな」と思ったのではないかと考えられる。
織田信長に与えられた領地には寺社領が含まれていたらしく、明智光秀は足利幕府に「明智光秀に領地を横領された」と寺社に訴えられ、明智光秀は将軍・足利義昭に叱責されたようだ。明智光秀は、「これ幸い」と「お暇を下さい。出家する」と申し出たものの、元亀2年(1571年)12月20日には却下され、両属状態が続いたようだ。
元亀4年(1573年)2月29日の今堅田城攻めの時、明智光秀は織田軍の一員として足利軍と闘っているので、足利義昭と手が切れたのは、元亀2年(1571年)12月20日~元亀4年(1573年)2月29日の間、つまり元亀3年(1572年)のことであると思われる。
なぜ、元亀3年(1572年)かといえば、その年、足利義昭は、織田信長と手を切り、武田信玄に織田信長討伐を命じ、武田信玄が西上作戦を開始したからである。明智光秀は織田信長&徳川家康側につくか、足利義昭&武田信玄側につくかの選択を迫られ、織田方についたのである。