見出し画像

空気を作る県議会とメディアの自滅

今秋の兵庫県知事選の結果について、オールドメディアとネットの対立構造を理由にしては、今後の自治体の首長選挙が間違った方向性を生む可能性をひしひしと感じる。確かにオールドメディアとネットでは、情報の偏りがあったことは事実だと思うし、オールドメディアの傲慢な報道姿勢は目に余るものがあるのも事実だが、問題は別にあると思えてならない。

またネット上に氾濫するリテラシーが不足した情報について、結局は、受け手が判断するしかないと言う側面も露わになった。行き着く先は、検索サイトのアルゴリズムに左右されるネット情報という、漠とした不安に怯える社会を作り出すことにもなりかねない。検索サイトが作り出す世論でいいのか?という原初的な議論も喚起されることにもなるだろう。

AIが作り出すギミックに乗せられる人間サマという、安っぽいSF小説のテーマという笑えない世界は、これから先、起きることはないとは思うが、一方、たかがネット情報ごときで構成されるほど、人間の脳みそが作り出す判断基準は陳腐ではないと信じたい思いもある。

オールドメディアであれ、ネット情報であれ、実は根底は同じで、それらが作り出す空気感が問題なのであって、今回の兵庫県知事選という茶番劇は、まさにその空気が作り出したものだった。誰かが描いたシナリオではなく、それぞれの自己保全の言動が作り出した、ただの空気でしかなかった。むしろ、自死された県職員も可哀想なら巻き込み事故を喰らった県知事も可哀想なら、一番の被害者は兵庫県民だとも言える。前回の拙稿で触れたように、そこに生まれる責任について、誰も言及していないことが、またぞろ、同じ現象を引き起こしてしまうのではないか?という懸念もある。

それは兵庫県という自治体だけの問題ではなく、他の自治体も同様で、前回同様繰り返すが、地方自治の在り方、地方行政の在り方に帰趨させなければ、20億円もの血税を投じた選挙の意味が霧散してしまうだろう。

ではオールドメディアに対してもネット情報を流布する「名無し」の第三者に対しても、リテラシーを求めることで対峙する関係性を解消できるかと言われれば、それは違うということになるだろう。リテラシーなどというものをオールドメディアや氾濫するネット情報に求めても仕方ない。それは法律の分野の話であって、とどのつまり主権者は誰なんだ?という問いに帰るしかない。

この原則は、紙媒体だろうと、地上波垂れ流しメディアであろうと、「名無し」文化の象徴である5ちゃんねるだろうと、勝手なことを放言するだけのネット民だろうと変わらない。媒体が変わっても、時代が変わっても、それは呉越同舟の護送船団方式の勝手きままな言説を放言するだけの一方向性の言いっぱなしでしかないのだ。そこに唯一存在するルールは、事実しかない。エビデンスは何か?という問いしかないのだ。

バカ朝日新聞の記者が、「エビデンス?そんなもんねーよ」と吐き散らかしたのは、事実だけを報じることはメディアや報道の死を意味するという宗教の教えに立脚しているだけのことであって、それこそ、報道の死を意味しているが、ご自身は気づいてない。つまり、バカ朝日新聞なりのバカな正義感に立脚しているのだ。

これは朝日新聞がバカなだけではない。オールドメディアであろうと、ネットメディアであろうと、自分たちに正義があると盲信する全ての情報媒体に言えることだ。報道機関が事実を報じ、その裏どりをするのならまだしも、空気を作り出すことに先鞭をつけるのは、報道機関としての職務放棄だ。世論を誘導したいなら、活動家になれば良いのである。公共機関に近い性質の報道機関は、テレビは国民の財産である地上波で放送を行い、新聞は消費税は軽減税率の対象になっている。つまりオールドメディアと言われる報道機関は、優遇されているのだ。その報道機関が特定の恣意的な報道姿勢なら、それは報道機関ではなく、既得権益業界ということになる。


ここから先は

684字

ニュースの話題に触れます。 『ニュースの裏側』に取り上げたニュースについても書きます。

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?