#書き手を信じる
昨夜、『求められた読み手』というオンラインイベントを開催しました。池松潤さん、仲高宏さんと一緒に「読むこと」についてお話をさせていただき、zoomには60名を超える方々が集まってくださいました。お話を聴いてくださったみなさん、どうもありがとうございました。
「この人数がオンラインで集まる」という経験は今までになく。画面の中にみなさんのお顔が並んでいて、それはそれはとても素敵な光景でした。初めてお顔を拝見する方もいたり。「実際に会う」とはまた違うかもしれませんが、やっぱり楽しいですよね。名前を呼ぶと手を振ってくれたりして、画面に向かってつい笑顔がこぼれる。
それは、お互いに「書いたものを読んできた」経験があるから。画面の中の「あなた」を、「わたし」は知らないようでいて知っている。それぞれのコミュニケーションの堆積が、顔を見た時の喜びにつながったんだなぁと眠りに就く前にそんなことを考えたりもしました。
この文章は感想レポートというよりも、話しきれなかった分の追記に近いかもしれません。もし良ければお付き合いください。
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「読むこと」という大きなテーマについて三人で話したのですが、考えてみればその言葉が意味する深さや広さは人それぞれですよね。僕も、池松さんも、仲さんも微妙に違うだろうし、きっとご覧になっていただいた方もそれぞれの「読む」があると思います(もちろん、文章を目で追って、頭で理解することには変わりはないのですが。)。それを語り合うことによって「読むこと」の形が少しずつ変わっていったことがディスカッションの楽しいポイントでした。
「書くこと」と同じで「読むこと」もまた技術だと思っています。「読む」の概念を拡張させて文章と対峙すると、得られるものが多くなります。つまりそれは「行間」。文章と文章を繋ぐ空白に、その人の思考や美意識のようなものが見える。演劇でいえばわかりやすく、例えば「君のことなんて嫌いだ」というセリフでも、役者が笑いながら話すのか、怒りながら話すのか、あるいは泣きながら話すのかでは全く違います。細かく言えば、同じ「泣く」にしても号泣しながら台詞を言うのか、涙があふれるのを堪えながら言うのかでは言葉の意味が変わります。
意外なことに、文章にも言葉ではない部分に書き手の心が現れていて、その思考や感情をイメージすることが「対話」の一歩目になるのではないかと思っています。そう考えると、伝えることが上手な書き手は演技の巧い俳優と同じですよね。大事なのは思考や感情の方で、それを適切に伝える力が文章力であったり演技力であったりします。その力があれば、「含み」をもった表現だってできる。読み手や観客へイメージの余白を与えてくれます。
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さて、ここからちょっと偉そうなことを書きます。本来、有料マガジン向けに書くような内容です(特定の人にしか価値がないものは有料で書くことにしています)。ただ、昨夜集まってくださった方へ向けて三日間ほど無料で公開します。「偉そうなこと言われたくないぞ!」という方は最後のブロックまで読み飛ばしてください。
「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。