書いた量と推敲の量は、裏切らない。
第三回教養のエチュード賞への応募作品に対して、一通ずつ手紙を書いています。
前回も「読むことは教養のエチュード」と名付けて、全ての作品にコメントを添えて紹介したけれど、今回は一人1000文字ずつだから一段と気合が入っています。「読むこと」を最大化させることは「書くこと」だから、真剣に読むためには書かなきゃいけない。そう、ぼくにとって読むことは教養のエチュードなんです。
回を重ねるとわかってくることがあって。たとえば、一回目からずっと作品を届けてくれる人がいます。考えてみれば、その人たちは一年間、文章を書き続けているわけです。二つの点を結ぶと線になり、三つ結ぶと面になる。その人の表現の幅や深さのようなものが浮かび上がってきます。
ぼくも毎回真剣に読んでいるから、前回、前々回の作品をはっきりと覚えている。記憶と照らし合わせながら読む楽しみは一入です。そこで気付いたことがあります。それは、書き続けてきた人たちはもれなく、一年前よりも文章が洗練されているということ。
「想い」や「気迫」という面でゆらぎはあるかもしれません。ただ、文章だけで言えば確実に磨きがかかっている。そこで、この記事のタイトルへと戻ります。
書いた量と推敲の量は、裏切らない。
確かなことは、「書き続けさえすれば、文章は上達する」という事実です。
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「どうすれば文章が上達しますか?」と聞かれれば、「毎日書くといいですよ」と答えます。何でもいいから書く、人に見せる。「人に見せる」というのは身だしなみと同じで、他人の目があると細部に気遣いをしたり、表現に工夫を入れたりするようになるからです。そういう意味では、noteは良い練習場所だと思います。
毎日、noteを更新しはじめて210日を超えました。今考えると「どうしてもっと前から毎日更新をしなかったのだろう?」と後悔しています。仕事で毎日文章を書いているのだから同じじゃないか。そう思っていた時期もありました。
でも、この場所で毎日書きはじたことでようやく気付くことができた。ぼくには圧倒的に書く量が足りない、と。それは身体の可動域のようなもので。しなやかで柔軟な動きを獲得するためは、日々のストレッチと筋力トレーニングが必要となります。書きたい世界をことばで表現するためには、基礎体力から整えることが大事です。
文章は恋愛とは違います。ギャンブルとも違います。書いた分だけ、しっかりと力となって返ってくる。裏切らないんです。だから、ただひたすらに書けばいい。日々書いたり、推敲をしている人の文章は、自由でありながら整然としています。書かれていない部分に熱が宿っている。それは「信頼」に近い響きがあります。
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文章力を最も引き上げてくれるのは仕事です。そこには責任がある。依頼者の視点や読者の視点を理解して、「伝わる」を考えながら言語化していく。それはつまり、複数の視点を自分の中に取り入れることです。そこで行われる「書く」という営みは、加圧トレーニングのように短い時間で実用的な文章力を育ててくれます。
並行して、「制約のない中で自由に書く」ということも大事だと考えるようになりました。それは一見「無駄」に見えるかもしれません。でも、その無駄は時間をかけて腐葉土になり、自分のことばを育ててくれる。(ぼくの場合)仕事の文章だけだと、神経がすり減ってくるんです。「書くこと」が限定されると、こころが削れて、貧しくなっていく感覚に陥ります。
遊ぶような感覚で自分のことばを探していると、コンディションが整ってきます。ライフスタイルの中に「noteを書く」を入れてしまえば、それは努力ではなくなってくる。歯をみがくことと同じです。自由に書いたその文章を気に入ってくれて、仕事のお声がかかったりすることもあります。
以前は、一つの記事に対して十日も一ヵ月もかけていたことがありました。一つのことに対して我慢強く向き合う作業はとても尊いものです。それによって得たものもたくさんあります。ただ、気付いてしまった。毎日文章を書きながら、並行して一つのことと向き合えばいいんだ、ということを。おもしろいことに、ぼくが魅力を感じる人の多くはそれをやっている。どちらか一方を切り捨てるのではなく、両方同時に取り掛かる。もしかしたらその方法には向き不向きはあるかもしれません。
ただ一つだけ言えることは、「書いた量と推敲の量は、裏切らない」ということです。