さんぽ、床磨き、コーヒードリップ。
この三つの共通点は「瞑想」だ。歩く瞑想、磨く瞑想、淹れる瞑想。行為に集中しながら自分の内側へと入ってゆく。一日の中に、それらの時間があることで清らかかつ、軽やかでいられる。デトックスのように毒素や老廃物が抜けてゆく感覚。燦然とかがやくというよりも、透明感が増してゆくイメージ。このようなヒーリングの技術を持つことは、生活の知恵でもある。
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原稿をまとめながら、YouTubeでこたけ正義感という芸人の『弁論』を聴く。現役弁護士でありながら芸人としても活動する彼が、何もないがらんどうの舞台で一人語りをする。最初は、BGM代わりに流していたのだが、あまりにおもしろくて途中から集中して見入ってしまった。
弁護士ならではの切り口や、インテリジェンスきらめくロジック。知的好奇心もくすぐられるし、落語的な社会の捉え方に痛快さもある。彼のすばらしいところは、それらをカジュアルに味付けする技術。聴き手が思わず構えてしまうような難しそうなワードや重たくなりそうなテーマでも、空気を抜いてライトにする。授業であり、落語であり、手品である。そんな話芸。
彼の芸に観ている人は感心するのだが、感心させ過ぎない上品さがある。古舘伊知郎のトーキングブルース、神田伯山の講談、小林賢太郎のコント。どれもわたしは大好きなのだけれど、おもしろさと凄さの後に「感心」の余韻が残る。二十代の頃は、その「感心」も心地良かったが、今の年齢になるとその「感心」がピュアに笑うために邪魔になっているなと思いはじめた。そこに優劣があるのではなく、どれもすばらしい芸なのだけれど、個人的な趣向が変わってきたのだ。そういう意味では、こたけ正義感の『弁論』は、おもしろさと凄さの後味が軽やかで心地良い。
弁護士としての思考や習慣で笑いをまぶし、それが袴田事件の題に差しかかり重厚感が出て来た辺りで、前半のまぶしによってさり気なく教育されたわたしたち観客からフックを回収してゆく。わたしたちはそれがフックだったことに後々気付くのだが、そこに厭らしさがない。笑いだけが残る。重たくなった頃に、お口直しをしてくれる。きっと彼は料理も上手だと思う。
こういう社会的にシリアスなテーマまでもエンターテインメントに昇華してしまうのか。しかも、上品で、軽やかに。百聞は一見に如かずなので、この日記を読んでいる人には見てもらいたい。裁判に関していろいろと勉強になるし、何よりシンプルに漫談としておもしろい。
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ときどき、街でお祈りをしている人を見かける。
それは神社の拝殿前だったり、教会の中だったり、礼拝所の絨毯の上だったり、スポーツ観戦や音楽鑑賞の最中だったり、公園のベンチだったり。その中で、まるで時間が止まったように見惚れてしまうほどの美しさと静謐さで祈る人がいる。当然、こちらから声をかけることはできない。「声をかけてはいけない」と感じさせる本能的な凄まじさ。ただただ、こちらはうっとりするだけである。
あのような光景を目にする度に、こころにひかりが差し込み、しっとりと満たされてゆく。瞑想と祈り。自分との対話と神との対話。今年は、祈りについて学んでみたい。