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耳がさみしい
耳がさみしい。
朝起きてカーテンを開けると、しとしとと雨が降っていた。浄化の雨だ。ささやかで、さわやかな、しおらしい音色。顔を洗い、口をゆすぎ、外に出る。正月の間に膨らんだゴミ袋を運ぶ。家は生き物だ。空気も、水も、電流も、モノも、外から入って来る。ただ、そこに留まってしまうと機能が破綻してしまう。人間でいえば、動脈硬化、あるいはフン詰まりの状態。滞ったものを外に出すから循環する。家を健やかにするためには、入ってきたものを外へ流すこと。家からすればそこに住むわたしたちは細菌のような存在なのかもしれない。家の状態を調える微生物。さぁ、窓を開けて風を流そう、蛇口をひねって水を流そう、ゴミを捨てよう。
とあるタブロイド紙の文章を書く。良い文章って何だろうね。昨日の「弁論」でも書いたが、感心してしまうと疲れることがある。さらさらと、すらすらと、つっかえることなく気持ち良く読める文章。空気や水のように、読んでいることも忘れるくらいに自然とそこにあるのだけれど、しっかり肉体を潤してくれるもの。最近、そういうことばはどういう息をしているのかについてよく考えている。ことばの呼吸。
厳かに呼吸することば、肩を上げ下げして呼吸することば、深い呼吸のことば、浅い呼吸のことば、呼吸を忘れたことば、息継ぎのような呼吸のことば。いろんなことばの呼吸がある。
人を感心させることばは仕事になるけれど、感心を忘れていつの間にやら融け込むみたいなことばも仕事になる。感心させないように、枝につかまるナナフシみたいにそっとゆっくり。
耳がさみしい。
昔は、文章を書いている時に邦楽を聴くことができなかった。歌詞が邪魔をするので、文章を書く脳が上手に機能しない。昨年のとある時期から、邦楽を聴きながら仕事ができるようになった。明確な理由がある。それは、ことばを「意味」ではなく、「音」として聴くようになったから。ことばとして捉えるのではなく、音として、もっと言うと「声」の音色を聴いている。
その技術を習得して以降、わたしは他人の声やことばを音色として受け取るようになった。むしろ、誰かの声を聴いていたい気分でいる。それは音楽だけではなく、会話や語りでもいい。話している内容はともかく、誰かが話す「音色」に浸ることができればいい。
音楽を流したり、ラジオを流したり、YouTubeでインタビューや対談の動画を流したりしながら、耳のさみしさを埋めてゆく。続けていると、会話や語りはれっきとした音楽であることに気づく。そして、自分には好きな音色と、そこまで好きではない音色があることにも気づく。香りであればトップノート、風味であれば口あたりのように、最初の音を判別する聴き心地がある。今最も聴き心地の良い音色は、孫の声だ。
雨だからか、夕方頃にひどく眠たくなった。一時間仮眠して、車を走らせ、娘夫婦と食事をした。孫がこちらを見て笑っている。「目が合う」というのは、神秘的なコミュニケーションだと思うようになった。親や先生から「人の目を見て話を聞きなさい」と言われてきたが、簡単に目を合わせてはいけないように感じる。彼らがしつける以上に、それはもっともっと密やかで、危うい行為なのではないだろうか。
目を合わせた時には、ことばは不要である。
今日も、孫の声はわたしのこころを潤してくれた。
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