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なぜ、生きているのか?【哲学とダンス】
「なぜ、生きているのか?」
人生の青葉を迎えた頃、誰もがそのことについて考えるのではないでしょうか。強い日差しから逃げるようにして、静かな暗がりでじたばた考えあぐねることが、子どもから大人へと変わるために必要な過程であるように思います。もちろんそこに明確な答えが存在するわけでもなく。
その命題を抱えたまま大人になることを「こじらせている」と言って、鼻で笑うことを誰ができるでしょう。彼らはその問いに対する答えを導き出したのでしょうか。多くの人は、その問いに対する答えを保留したまま大人になっていきます。そして、その問いと向き合うことを忘れて、「そういうもの」として日々を過ごします。
あるいは、道の途中で答えを見つける者もいるでしょう。使命を感じる者、文化を継承する者、子孫に託す者。「なぜ生きるか」という答えを自分自身で見出した人間は、答えが出ていない者を笑ったりはしません。
あるいは、思想や宗教の助けを借りる者もいます。そこに描かれた地図を参考にしながら、自分自身の人生と照らし合わせます。言葉に救われ、祈りを知る。短絡的な答えが存在しないことに直面し、人生の二度目のはじまりを迎えます。
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わからないことを笑うな
問い続けることができる人間はタフです。多くの人は、途中で「問うこと」をあきらめてしまいます。「問い」と向き合うことに疲れ果てる。どこかで「卒業」という区切りを勝手につくり、身体だけが成熟していく。振り返った時に「思春期とはそういうもの」という感覚だけで片付け、保留していた問いに対して改めて向き合おうとはしません。
ある者は外側に答えを求めます。親が教えてくれるかもしれない。先生が教えてくれるかもしれない。書物が教えてくれるかもしれない。宗教が教えてくれるかもしれない。ただ、それはあなたの答えではありません。他者の言葉はヒントとしてしか機能しない。これは紛れもなく「わたし」の人生なのだから。
外側に正解を求める人間は「考えること」を放棄しています。外側にれっきとした答えが存在することを盲目的に信じる者は、果たして自分の人生を生きていると言えるのでしょうか。「答えがある」と思い込んでいることが、そもそも間違いかもしれない。根本に対して「問い」を立てる勇気と知性がなければ、誰かの人生の歯車として消耗されて枯れていきます。また、それが「悪である」とは誰にも断言できないことも事実です。
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哲学
答えは自分の中で見出さなければなりません。たとえば、「地球から月までの距離はどれくらいでしょうか?」と訊ねた時に「38万キロメートルです」と答えてくれた親切な紳士がいたとしましょう。彼がいくら親切だからと言って、あなたはその紳士に対して「なぜ、わたしは生きているのでしょうか?」とは訊ねませんよね。その回答を彼が知っているはずがないことをあなたは知っています。
つまり、哲学的な問いは、外側に答えはなく、常に自分自身で発見しなければならないのです。哲学は、自分の力で考え続けること。答えのない答えを発掘する作業です。多くの人間は、若葉の頃に哲学者になります。そして、いつの間にか考えることをあきらめ、「ただの人」になっていく。
わからないことを恥じてはいけません。考え続けることが大事なのです。だからわたしは、今日も文章を書きます。
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