他律ワークと自律ワーク

他律と自律。
仕事にはこういった分類方法もあり、それぞれに求められる心構えはまるで異なることを最近実感するので、このテーマについて掘り下げて考えてみようと思います。

他律ワークは社内外の他者から要望を受け、あらゆる制約の中で求めに応じたものを提出する仕事です。
「この資料、今週中にまとめといて」という上司から受けるタスクもあれば、「明日までに見積もりいただけまへんやろか」という得意先からの依頼もこれに含まれます。
更には、「この企画、今回は君がまとめてくれよ」という、もう少し総合力の問われるものもありますが、求めに応じるという点においては他律の範疇です。

一方、自律ワークは仕事を生み出す発信源が自分です。
求めに応じるのではなく、求めが生まれるように仕掛けていくため、要望とタスクの順番が他律ワークのそれとは逆です。やらないことで誰かに迷惑をかけることもなければ、怒られることもありません。また、他律ワークに比べれば今日明日の損益に直結することも少ないことでしょう。

そこで、この分類に従って自分が仕事に投下している時間を色分けしてみると分かることがあります。
それは、思っている以上に「他律」優勢であるということです。

そして意外にも、社長業をされている方でさえ例に漏れず、この分類に従えば他律過多に陥りがちである、ということがわかります。

問題解決のための職能スキルが高ければ、他律ワークの出来で他者を上回り、評価を受けます。
世間一般的な「仕事ができる」という形容はこの「捌き上手」な他律ワーカーを指している気もします。
そして何より、反応を受けることが確定している「他律ワーク」の方が仕事の味がします。

しかし、ビジネスは「問題解決である」という定石のもと、経済人が皆、他律ワークのみを行ったとすればどうなるでしょうか。

それは結局、エンドユーザーの欲のみが全ての他律ワークの発火点となるため、「思わぬ出費」が生まれない、予定調和的な社会になってしまうのではないでしょうか。
僕自身もそうですが、「今時点で買いたいものを挙げよ」と言われれば、かき集めたとしても大した額にならないわけです。
消費者側が皆そうであれば、経済は縮小すること必至です。

なぜなら、「欲望の見つけかた」 で語られているように、人は誰しも真なる意味でオリジナルな欲望を持っているわけではなく、他者もしくは他者の持つものを羨ましく思うところから、欲望が生まれるはずだからです。


たしかに、先のことはなにもわかりませんが、今からは想像もつかないものに出費していることは確信ができます。
もちろん、そこには予期せぬハプニングのトラブルシューティングも含まれますが、そうではなく作品や画期的な商品に対するポジティブな出費もあるはずです。

そして、それらの作り手は間違いなく自律ワーカーなわけです。
素晴らしい映画や書籍も、嬉しい家電ももとを辿れば起点は孤独な作業の自律ワークであるはずです。

そして、自律ワークはなにも、多数に評価されるメガヒットだけである必要はありません。

僕みたいな天邪鬼は、ベストセラーに刈り取られたくない気持ちが芽生えてしまうので(ビジネスマンとしては良くない気がする)、そうした人が手を伸ばさないであろう作品や製品に惹かれがちです。

そして、そこには必ず「自律ワーカー」がいるはず。
その作品や製品の作り手も自律ワーカーなれば、「売らせてくれ」と申し出るのも自律ワーカーです。

そんな自律ワーカーたちのおかげで、未来を楽しく見据えることができる面もあるのではないでしょうか。

それほど世間を騒がせそうにもない、当座お金を生みそうにもないワークに淡々と取り組んでいると、「これやって何になんねやろ」と禿そうにもなりますが、これが自律であること、「仕掛ける」側にいることの何よりの証左であると気を持ち直せば、少しは勇気が出てきます。

話はまるでまとまりませんが、僕自身はヘンに「仕事ができる」像を目指すのではなく、自律ワークの一躍を担いたいと思っています。

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