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酷使された肘について

読書の姿勢

 みなさんは本を読むとき、どういう姿勢をされていますか? 私はもっぱら万年床にうつ伏せになって、両肘をついて本を持ち、読書をしています。そうした生活が長く続いたためか、ついに先日、右肘に画像のようなたこ(血豆?)ができてしまいました。
 まさかこんなことになろうとは夢にも思っていなかったのですが、おそらくここ数日の間に右肘を蚊か何かに噛まれてしまったのでしょう。泣きっ面に蜂、といったところでしょうか。

妄想:『もののけ姫』のアシタカの右腕

 今日は久しぶりにゆっくりして、午後は何年かぶりに『もののけ姫』を観ました。いや、やはり傑作です。時代劇+ファンタジーといった感じなのでしょうか、なんと形容すればいいのかわからないのですが、荒れた世界に対する主人公アシタカの眼差しが、久しぶりに私の胸を打ったのです。
 中盤、不意に涙を流してしまった場面がありました。「もののけ姫」サンがタタラ場に襲撃をかけ、エボシ御前に襲いかかる場面。サンにもエボシ御前にもそれぞれ守るものがあります。サンはシシ神の森を、エボシ御前はタタラ場を守りたいのです。そして作中において、この両者は常に対立しており、憎悪の連鎖、怨恨が怨恨を呼ぶ構図が描かれていきます。故に、サンとエボシ御前には相通ずるものがある。アシタカは両者の争いに割って入り、タタリ神に呪われた右腕を衆目に晒しながら、サンとエボシ御前に告げるのです。「あなたの中には夜叉がいる」と。そして、アシタカは恨みの連鎖が争いを呼んでいると皆を戒めます。
 この場面になぜか心を揺さぶられました。気づけばほろりと泣いていました。私が思うに、アシタカはタタラ場にとっても、シシ神の森にとっても第三者、部外者でしかありません。再三、森を去れと、モロの君や乙事主に言われます。しかし、アシタカは留まり続けます。登場人物たちも言及しますが、アシタカはどちらの味方なのか判然としません。なぜか。それは彼がタタラ場もシシ神の森も是とし、両者が争わなくて済む道を模索しているからです。
 このことから言えるのは、アシタカは調停者あるいは裁定者であるということです。作中、アシタカはエボシ御前に言います。「曇りなき眼で見て見定める」と。その結果、彼は二つの共同体を、いや、世界を救い、守ろうとした。『もののけ姫』は上質なエンターテインメントであると同時に、ある問題提起をしています。それは「異なる他者が他者でありながら共に生きる術はないのか」ということ。物語の終盤、アシタカとサンの会話が印象に残りました。二人は生きていくことでしょう。お互いの世界に属しながら。
『もののけ姫』は「生きる」ことを描いた物語だと思います。「生きたい」という願望でも「生きろ」という使命でもなく、「生きる」という決意。その意志を叩き出したことに、『もののけ姫』の良さがあるように思えてなりません。

 さて、真面目な感想を述べたあとでお茶を濁すのは申し訳ありませんが、アシタカと同じように、私は右腕に何らかの印を得てしまいました。おそらく警告なのでしょう。読書もほどほどにせよ。あるいは姿勢を正しなさい、といった感じの。
 今年も残り数ヶ月。私はまだまだ本を読み続けます。やりたいこともありますし、だんだんnoteにも慣れてきました。
 みなさん、ぜひ『もののけ姫』をご覧ください。戦火が世界のあちこちで燃えているいま、自然が侵されているいま、改めて学ぶべき点の多い作品だと思います。
 今日もお読みくださりありがとうございました。

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