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軍用犬研究と警察犬の始まり 陸軍大尉吉田彦治という人物について- 巡巡 #011
先日先祖巡礼のポッドキャストにてうちの家系の戸籍に載っていた、明治の叔父さんが日本の軍犬・警察犬に至る研究の第一人者「陸軍大尉・吉田彦治」であったという話をしました。
明治37年に陸軍士官学校を卒業後、明治40年に陸軍大学校を出ています。将校を目指したり、出世コースを進んだエリート軍人だったのかなと思います。(国立公文書館アジア歴史資料センターより)その後、千葉の陸軍歩兵学校の歩兵学校教導隊所属します、大正元年のことで大正3年「軍犬ノ養成並使用法ノ研究」という資料を発表しています。こちらは早稲田大学が所蔵しています。軍用犬・警察犬の詳細情報は帝國ノ犬達(アメーバブログ)を参照しました。
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今回の記事ではその後の彦治のことを紹介します。戸籍によると彦治は大正11年に山口県吉敷郡上宇野令という場所に転籍したところまでの記載があった。現在の山口駅の周辺らしい。
土地柄全く関係ないような気でいたが、そういえば祖母が僕の曽祖父の吉田清夫が山口の下関までバイクで行ってフグを食べたという話をきいたことがあり、なぜ下関に?と思っていたのだが関係あるのか?また以前「山口の親戚が学校の先生・・・」といった趣旨のことを言っていて、何か間違えているのだろうと思っていたが、もしかしたら繋がってきているのかもしれない。(後日確認します)
そこで山口県に旧土地台帳を探してもらい送ってもらった。一度電話をもらい、所有者は別の人とのこと。送られてきた土地台帳を見ると確かに彦治ではない他の方が所有する土地のようだ。一応その方を調べてみた。本人だという確証はないので考察を含みます。明治2年の「上下京社寺取調帳」【(京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ(行政文書)より】というもので同姓同名の人がヒット。この台帳の作成者が旧土地台帳に載っている土地の所有者のようだ。年代的には多少ズレはあるが間違ってはない気がする。
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この作成者が「下京二十番組中年寄」という役職で幕末から明治初期に京都の下京二十番組の区域を仕切っていた人物のようだ。その後、隠居して山口の上宇野令の土地を相続した?という感じだろうか。ちなみに現在は不明だが、この土地は同じ姓の一族が昭和初期まで所有していたようだ。
もう一つ、「上下京社寺取調帳」というものの中に、下京二十番組寺数之覚という項目があり、これはこの地域の16ヶ所の寺を調べたものなのだが、とても興味深いことに気がついた。
まずその寺の一覧は以下。
即現寺・善永寺・東坊・閑唱寺・佛現寺・大円寺・無量寺・浄真寺・正因寺・善久寺・徳応寺・願成寺・妙誓寺・金勝寺・教円坊・金光寺
この中の「佛現寺」は京都の佛現寺なのだが、吉田家の墓は静岡の伊東にある同じ名前の「佛現寺」だ。バイクで下関の吉田清夫が施主で本人もここに入っている。果たしてこれは偶然なのか…?
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現代では薄れてきたように思えるが昔の人は何かを決める時に、先祖に準えて物事を決めるなど、そういった想いは強かったと思うので、もしかしたら彦治に近しい何かに触発された可能性はなくはないかな。
引き続き先祖巡礼よろしくお願いします。