予感のする方へ
人の気持ちをちゃんと考えよう。
この言葉がすごく苦手だった。たぶん小学生のとき、家族や学校の先生に最も言われた言葉。
自分の何気ない言動で、周りの友達が泣いたり大人が怒ったりしてる様子をよく見かけた。みんなが感情的になってる状況が不思議だったけど、たぶん悪いことをしちゃったんだなと少し自覚していた。
とりあえず、声のトーンを落としたり表情を暗くして、反省した雰囲気を醸し出した。「ごめんなさい」「次からちゃんとします」という心に無い言葉を機械的に喉から発声してその場を乗り越える。そして同じことを繰り返し、また何度も同じことを言われる。
悪気はなかったけどあまりにも怒られることが多かったので、自分はどちらかと言えば世の中的には「良い子」ではなく「悪い子」に該当する種族なんだと思い込んでいた。
説教がとても億劫だったので、経験則に基づいて「どうしたら怒られないか、嫌われないか」を基準に考えたり行動することが自然と増えていった。一定の成果は見られたものの、それはある意味自分を殺して他者基準で生きることと同義だった。
他者にとっての違和感やノイズを引き起こさずコミュニティに適応し続けた結果、自分の個性や感情を発露することも減った。自分という人間がすごくつまらなく感じたし、人生ってぜんぜん面白くないと思う日々を過ごしていた。
26歳になった。色々あって当時から大きく変化し、今はちゃんと自分の人生を生きてる。毎日が楽しい。けど、ときどき意識しないと感性の発露が疎かになってしまう。過去の遺物がまだ少し残っているようだ。
こないだ、JAPAN JAMという音楽フェスに行ってきた。普段は友達と行ってるけど、色々あって急遽1人で参加することになった。
1人でも楽しいの?と感じがしたけど、実はめちゃくちゃ楽しんだ。人混みの中をスラスラ進んで、アーティストの表情の変化をはっきり視認できる距離まで簡単に到達することができた。牛ハラミステーキ丼も美味しかった。
あともう1つ。誰かと一緒に過ごしていると、想像している以上にその人の存在に意識を引っ張られてしまう。けど今回は「アーティストの届ける音楽」と「音楽によって発露した自分の感性」だけに自然と集中することができた。
特に顕著だったのは、SUPER BEAVERの「予感」を聴いたときだ。
「予感のする方へ。心が夢中になる方へ。」という歌詞を、アーティストの代わりに観客が何度も叫ぶ仕立てだった。なので、予定調和で流れに従い、同じ歌詞を何度も叫んだ。最初は「何度も大きな声で歌えて気持ちいい」くらいにしか思わなかったけど、徐々に変化が起きた。
口から発する言葉と耳に反芻する言葉が、自分の中で循環しだんだんと心の奥底に到達してきた。歌詞のとおりだけど「自分は何を予感しているのか」という問いに心から向き合うことができたのだ。
誰かの目を気にしたり損得勘定で判断したり理屈で考えるのではない。純粋な心の声を聴こえてきた、という感覚だ。
良くも悪くも、日頃の生活において合理的に考えることに慣れてしまってる。自分の場合は特に顕著で、意識しないと自分の感性を発露することを忘れてしまう。それは小学生のときの原体験の後遺症かもしれない。
いっさいの理性を捨て去り、忘れがちな感性が思いっきり解放された瞬間だった。いきなり何の話?と思われてしまうかもしれないが、私は宇宙を探求したいと思った。冗談ではなく本心で。
どこかで蓋をされた想いが音楽と共鳴し呼び起こされて、自分自身の軸を取り戻すことができた。そんな感覚だった。
また1つ自分の気持ちに気づくことができた。
けど他人の気持ちはどうだろう。
宇宙の話はまたどこかで。