文才なんてないけれども
いろんな人の文章を読むたびに、「文才がほしい」と思ってしまう。毎日文章と触れ合っているため、少しだけ読む力は養われたはずだ。とはいえ、それを自分の中に落とし込めているかどうかは別の話。
生まれてこのかた自分の文章がよく書けていると思ったことが一度もない。どの文章を読んでも下手くそだと思うし、言い回しも構成もぜんぶ変えたくなる。前向きに捉えれば、向上心の表れ。後ろ向きに捉えれば、ただ下手くそなだけ。
毎日のように「文才がほしい」と思っている。文章がうまくなるために、文章を書いたり、いろんな方の文章を読んだりしているけれど、インプットもアウトプットも両方足りていない。
うまい文章を読むたびに、どんな視点で物事を見ているのか。書く際に気をつけていることは?構成づくりのポイントは?読めば読むほど気になることが出てくる。そして、自分の文章と比べては、もっと細部まで書き切りたい、構成がだめ、言い回しが微妙など、自分の文章に自信を持てなくなる。
自分の文章は「真面目だ」と言われる場合が多い。文章は書き手の人となりが顕著に表れる。真面目な性格が功を奏する場合と、裏目に出る場合があるため、真面目と不真面目を使い分けたい。
その次に、自分の文章は「遊び」が足りない。その原因は自身の経験に直結している。学生時代から家庭の事情で、仕事ばかりしていた。友達と遊んだ記憶がほとんどない。社会人になってから遊ぶ機会は増えたけれど、学生時代にもっと遊びたかったってのが本音だ。
そんなものは全て言い訳である。遊びが少なくとも、うまい文章を書く人はたくさんいる。うまい文章を書けない理由は、自分の中に存在する。そいつと向き合わなければならない。人生には自分を甘やかしていい場合とダメな場合があって、文章に関しては確実に後者である。
もっといろんな人の文章を読む。ただ読むだけでなく、構成や言い回しを確認しながら読み進める。そして、これから先も文章を書き続ける。自分の書いた文章を1つずつ検証して、トライアンドエラーを繰り返していくしかない。下手くそから抜け出すためには、人一倍の努力が必須だ。
「文才がほしい」
この気持ちは、文章を書き続けている間は絶対に消えない。インプットとアウトプットを繰り返して、少しずつ文章を上達させる。「文才がない」と思えるのは、まだ成長できる証だと信じて、これから先も文章を書いていこう。