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文章を書く理由

世の中には文章が溢れている。

誰しもが毎日どこかで文章を目にする。

なんでみんな文章を書いているんだろうか?

僕は文章を書くことを仕事にしてからもう3年近くになる。

僕が文章を書くようになったきっかけは、小学生のときに、夏休みの宿題で出た読書感想文だった。「とりあえず出したらいいんでしょ」と適当に終わらせたものが、なぜか賞状をもらうことになって、そこから一気に引き込まれるように文章に興味を持つようになったのだ。

人生は適当にやったものが評価されることもあって、それがきっかけで、人生を変えることもある。

中学生の頃はデコログという媒体でブログを更新していた。高校時代はmixiやモバゲーでブログを書いていた。全部趣味の延長線上で、書きたいことばっかり書いていた。もちろんお金の発生していない。

社会人になった今、いろんなウェブメディアや紙雑誌で文章を書かせてもらったりして、文章を書くことでお金という報酬をもらっている。

僕はなんで毎日文章ばっかり書いてんだろうか。

自分が生きるため?それとも誰かのため?

そもそも理由って必要だったけ?

僕は正直文章の力にあまり期待を抱いていない。文章は虚しくも正しく伝わらないことの方が多い。誰かを救いたいのであれば、大切な人からのハグの方が効果抜群だ。

でも誰かを救いたくて、勇気を持って欲しくて、僕は今もこうして文章を書いている。

それは僕自身が辛かったときに、誰かの書いた文章を読んで救われてきたからだ。

文章に恋をしたり、涙を流したりすることで、文章に人生を救ってもらったりした。誰かの文章を読んで、こんな風に書けたらなと憧れを抱くこともある。人によって色や伝え方がまるで違うから面白い。

書くこと自体の表現方法は自由だけど、みんなが伝えたい思いをそれぞれ持っている。伝えたいことが伝わるときもあれば、伝わらないときもある。

テキストコミュニケーションは温度感が希薄だ。伝えたいことの半分もきっと伝わらない。伝わり方も人によって違うし、誤まった伝わり方をしてしまうときだってある。

僕は自分を救ってくれた文章で、誰かの力になりたい。

誰かを救うという名目の下、文章を書いている。

でも誰かを救いたいっていうのはしょせん建前で、僕は誰かに共感してもらいたいだけなのかもしれない。同じ悩みを抱えた人に、文章で悩みを共有したい。悩みを知ってもらうことで、1人ではないということを知りたかったのかもしれない。

自分を救うための救済処置として文章を書いているんだろうな。

文章は人によって解釈や受け取り方が違う。辛いときに前向きな文章を見ても、そっとスワイプしたくなってしまう。でも前向きなときに前向きな文章を見ると、自分を鼓舞してもらっている気分になる。

そのときの気分によって受け取り方が違うのは非常に興味深い。同じ文章を見たときに受け取り方が変わっていれば、自分の気持ちの変化が目に見えてわかる。

解釈の仕方が違うのが面白いし、相手の考えを知ることで、自分の考えをアップデートできたりもするんだよ。

だから客観的な意見はとても貴重だ。きちんと受け入れて、100%を目指していく。

そして、自分の書いた文章を見直すことで、自分の気持ちの変化を知る機会にもなる。僕は羅針盤のように文章を活用していきたい。

文章よりも絵や動画、音楽の方が、自分の伝えたいことが伝わるのかもしれない。

でも僕は文章を書くことをやめたくない。

自分のエゴのために書いたっていいではないか。

自分が救われるのであれば、自分の気持ちを整理するために書けばいい。僕はこれからも文章を書くことで、自分を救っていこうと思う。

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