泣いても良いよ
辛いことが起きてしまった時、多くの人は泣けずに自分の胸の中で消化しようとする。でもそのほとんどが消化しきれず、何日も後に引きずってしまうことが多い。
泣きたい時に涙は出ず、頼りたい時に人は誰かに頼ることができない。強がることは強さではなく、弱い自分を認めたくないだけの意固地なんだろう。
すぐに「辛い」と言える人がうらやましい時がある。そして、自分の感情をいとも簡単にむき出しにできる人に嫉妬してしまう時もある。
弱みをさらけ出せる人がうらやましい理由は、僕自身がすぐに強がってしまうからだ。頼りたい時に人に頼れず、強がってしまうのは僕自身のこと。
どれだけ辛いことが起きたとしても、まずは自分の中で消化しようとしてしまう。まずは自分で解決できるかを試みる。すぐに誰かに頼ってしまうと、「自分が成長しないんじゃないだろうか」という恐怖があるから、簡単には人に頼ることができない。
そして数々の困難を自分で乗り越えた自負があるから、その自負が邪魔をしてしまっているんだろうね。
でも成長の定義ってやつがよくわからないというのも事実。意味のわからない文言に縛られているだけなのかもしれない。
もしくは「周りに迷惑を掛けたくない」という気持ちがあるから、人に頼ることができないのだろうか?
いや、かっこ悪い自分を世間に見せたくないだけだろう。
「周りに迷惑を掛けたくない」と言っておけば聞こえはいいだろうが、実際は弱い自分をさらけ出す勇気がないだけ。ただそれだけだ。
「なんてかっこ悪いんだろう」って今までに何回も思ったし、それでも変わることができない自分をこれまでになんども恨んだ。
弱い自分を見せるのは勇気のいること。すぐに弱い部分をさらけ出せる人には理解できないだろうが、自分をさらけ出す行為は、とても勇気を要することなのだ。
「弱みを見せると離れられるんじゃないだろうか」
「かっこ悪い自分はみんなから求められていないんだろうか」
いろんな不安要素が脳内を駆け巡ってしまうから、僕は簡単に弱みをさらけ出せないでいる。
本当は誰かに頼ってしまいたい。
でも「迷惑」という言葉が思い浮かぶ限り、僕のこの問題は解決しないんだろう。自分は頼られるのが好きなくせに、人には頼ることができないって矛盾してるよね。
僕は自分のイメージ像を崩したくないだけのただの臆病者だ。
本当は辛いのに強がって、弱っている姿を見せることができない。
どうして自分はこんなにも弱いんだろうか。
辛い時に強がるのではなく、「泣いても良いよ」と自分に許可する勇気が欲しい。
そしてあわよくば誰かに弱みをさらけ出せる勇気が欲しいものだね。