公共料金
「ねぇ、人生ってなんだろうね?」
仕事終わりにビールを3杯飲み干した彼女が言った。普段はお酒を2杯しか飲まない彼女が、3杯も飲むなんてめずらしいし、なにかあったのかもしれないと思った。そして、僕は「人生?わかんないなぁ。あのさ、なんかあった?」と彼女に尋ねてみた。
「今日さ、仕事で大きなミスをやらかしちゃってさ。上司にこっぴどく怒られたんだけど、あれは私だけが悪いわけじゃないのに...あの上司私にだけきついのよね。ほんっと意味わかんない。人生むずすぎて超ウケる。仕事やめてぇぇぇ」
仕事でミスを犯し、上司に怒られた彼女は、やけに不機嫌な表情で言った。
「あはは。だから今日お酒いっぱい飲んでるのか。今日の飲み代は奢るし、気の済むまで飲んで、ストレス発散しちゃいなよ。君の愚痴も聞くしさ。」ともうこれ以上飲めないであろう彼女に、あえて挑発的な言葉で返してみた。正直彼女がこれ以上飲むか飲まないかはどうでもいい。彼女が少しでもストレスを緩和できれば、それだけで十分だし、それが恋人である僕の役目でもあった。
「ええ、優しい!でも、これ以上飲んだら明日に差し支えちゃうしなぁ」と生ビールを片手にエイヒレをつまむ。言葉とは真逆の行為を起こしながら、勢い任せの感情を言葉で押さえ込もうとしていた。
「あ、クリープハイプのさ、『確定した公共料金はただの生活の記録で』って歌詞知ってる?」
クリープハイプの「オレンジ」という楽曲に出てくるワンフレーズである。彼女はクリープハイプを愛していて、ことあるごとにクリープハイプの話題に触れる癖があった。
公共料金は誰もが使った分を、平等に支払わなくてはならないもの。そして、公共料金がなければ、生活が成り立たないようになっている。生活に必要なものはぜんぶ無料で使わせてくれればいいのに、生きているだけでお金を支払わなければならないなんてあんまりだよね。
電気があるから、家で生活ができる。ガスがあるから家で料理ができる。水道があるから、洗い物や洗濯ができる。公共料金の支払いは、生活を成り立たせるために必須のものだ。名誉があろうがなかろうが、誰しもが利用した分を必ず平等に支払わなければならない。逆に言えば、公共料金がなければ、日々の生活は成り立たなくなる可能性がある。そして、使えば使うほど生活は豊かになる可能性もある。でも、財布の中身も比例してなくなってしまうから、支出が出過ぎないように、僕たちは日々自分の意思で公共料金をコントロールしているのだ。
公共料金の他に携帯料金やサブスク、Wi-Fiなども利用した分を支払う必要がある。でも、後者は娯楽でなくてはならないものではなく、生活をより楽しくするために、自分で選んで支払っているものだ。あったら便利だけど、なくても生きていけるものが娯楽に当たる。
「『公共料金が生活の記録で』って表現した尾崎世界観天才じゃない?公共料金で歌詞を考える発想がまず出てないし、視点がめちゃくちゃ斬新すぎる。私、クリープハイプめっちゃ好きなんだよね。」
ああ、出た。もうその話は耳にタコができるぐらいには聞いた。もう聞き飽きたから、その話はできればもうしないでほしい。でも、君の話を聞くと言ったのは僕だから、同じ話をまた今日も今日とて聞いているのだ。
クリープハイプの話題になると、饒舌になるのが彼女の悪い癖だ。確かに尾崎世界観の歌詞は、発想の着眼点が面白い。そして、共感するポイントをきちんと抑えているから、男子よりも女子の方が熱狂的なファンが多い。男子はリズムを重視し、女子は歌詞を重視する。独特な視点から生み出される歌詞はいつも女子にやたらとウケるのだ。
「私も歌手になろうかな。もしかしたら大当たりするかもしれないじゃん?そしたら億万長者よ?そしたら人生もらったも同然じゃん!仕事したくないし、歌手も選択肢としてはありだよねぇ。なんかいける気がしてきた1」
彼女は歌手が仕事をしていないとでも思っているのだろうか。もし、本気でそう思っているならお門違いも甚だしい。そして、彼女は絶望的に歌が下手だから、きっとその夢は無残にも散っていくだけなのは目に見えている。
くだらない話をしているうちに、睡魔の限界がきてしまったのか、君はテーブルに伏せてしまった。こうなってしまうと彼女はテコとして動かない。タクシーを呼んで、君の家まで送るのが僕の日課であり、役目でもある。
人生とは果たしていったいなんだろうか。答えは出ないし、人の数だけ答えがあるのは間違いないのであろう。人生は長い。そして、思っているよりも短い。生が育まれる中で、僕らは出会いと別れを繰り返す。そして、生きるためにはお金も必要である。公共料金だけでなく、税金の支払いだってある。
生きるためにお金を稼ぐのか。それともお金を稼ぐために生きるのか。自分の人生の答えは自分で決めればいいし、他人の答えなんて僕は興味がない。やりたいことがある人生を送る人もいれば、やりたいことが見つからない人生だってある。起きるすべてのことを噛み締められる人もいれば、逃げ出してしまう人だっている。たとえどんな人生だったとしても、最後は笑って眠りにつきたい。それが僕の願いであり、理想の死に方である。
タクシーが店の前に到着したため、お会計を済ませ、居酒屋から外に出た。タクシーにお酒に酔った彼女を無理矢理押し込み、タクシーの運転手に、目的地を伝える。
「きっとふたりなら全部うまくいくってさ。」
彼女を起こさない程度の声量で、彼女の耳元にそっとつぶやいた。隣で眠る彼女の手を軽く握る。すやすやと気持ちよく眠る君の寝顔に少しだけ見惚れている自分がいた。
そして、車窓からそっとオレンジの光が差し込んだ。