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やさしいキスをして
最初から自分のものにはならないとわかっている恋だった。年上男性に恋をした私には最初から勝ち目がなかったのだろう。でも、賢治との関係を都合のいい関係なんて都合のいい言葉で片付けたくない。決して綺麗な恋ではないけれど、1人の人間を本気で愛することができると知った恋だった。
ずっと自分の意見がない人間だった。親に叱られても、口答えをしない聞き分けのいい子どもだ。説教中に親に口答えをすれば、それが原因で説教タイムが長くなる。それならば反省しているふりをして、親の怒りが静まるのをグッと堪えて待つ。それの繰り返しをしているうちに、自分の意見がない人間になってしまった。
小学生のときの学芸会でシンデレラをやることになったときの話だ。私はシンデレラになりたかったのだけれど、それを口にすることができず、結局木の役になった。木の役を懸命に演じる子を見て、両親はどんな気持ちだったのだろうか。
過去にお付き合いしていた人から何が食べたいと聞かれたときも、なんでもいいと答える人間だった。なんでもいいと答える理由は、好きな人が好きなものを食べる姿をそばで見ていたいからだ。そこに私の意見なんて必要ない。好きな人が私のそばで幸せに過ごす。それが私のすべてだった。
賢治はそんな私の性格を見抜いている。だからこそ、私に意見を求めるのだ。食べたいものや行きたいところ、2人に関する何もかもを私に決めるよう促す。これが賢治のやり方なのは理解していた。お付き合いをすると言う大切なところは決めないくせに、それ以外のすべてを私に求める。視点を変えれば、2人のことを何も決めずに、ぜんぶ私に押し付ける最低な男だ。でも、彼の意向が、意見がない私は少しずつ自分の意見を言えるようにした。
「俺の幸せが自分の幸せなんて変なの。自分の幸せは自分で作らなきゃ意味がないよ」
「みんながみんな自分の幸せを作れるわけじゃない。自分が幸せになるよりも他人の幸せを願う方がはるかに簡単だよ」
「自分を大切にしない人から順に不幸になるからね」
賢治の言葉の意図はぜんぶ理解していた。たとえ理解できたとしても、それを行動に変えるのは容易ではない。何度も自分を変えようとした。それでも変われない。暗闇を彷徨う私を賢治が光のある場所に導いた。私は賢治と出会ったことで、自分の意見を言えるようになった。私にとっては大いなる前進であ流。
一度だけ賢治にわがままを言ったことがある。私たちはお付き合いをしていない関係のため、いつ終わるかわからない恐怖に駆られていた。それを払拭するために、私と付き合ってほしいと賢治に話した。賢治は何も言わずに、私を手繰り寄せ、頬にやさしくキスをするだけだった。
その瞬間に賢治とは一緒になれないと悟った私は、どうやって彼から離れるかを模索する毎日を過ごした。好きな人を作るために複数のマッチングアプリを駆使してみたけれど、やっぱり賢治を超えるいい男は現れない。一晩を共に過ごすだけの関係が増えただけだ。真実の愛ってやつはどこにも見当たららないまま、ずるずると賢治との関係も続いていく。どれだけ私が落ちぶれたとしても、お付き合いをしていない賢治には何も言う資格がない。私の人生は私のもの。それを教えてくれたのは紛れもなく、賢治である。
堕落した生活を続けているうちに、人生の意味を考えるようになった。私の人生は私のものなのに、私はずっと不幸ばかりを追い求めている。幸せになる許可がいつまで経っても出せない。すべてを放り出したら楽になることも知っている。自分を変えたい。そして、賢治との関係性を終わらせたい。
そして、私は自分が泣いてもバレないように、雨の日に賢治を駅前に呼び出した。何も言えずに立ち尽くす私の顔を覗き込んだ賢治がどうしたの?と聞く。変わりたいけれど、変われない。それの繰り返しをずっと生きている。今回こそ変わりたい。でも、何も言えなかった。
降りしきる雨の中で、突然賢治が私を手繰り寄せる。揺れた髪から落ちた雫が彼の頬を濡らす。何事もなかったかのように、私を強く抱きしめる賢治に私は太刀打ちできない。勝てないと思った。これ以上一緒にいても幸せにはなれないと知っているくせに、やさしい彼から逃れられない。それでもいい。それでもいいから、今夜、せめてやさしいキスをして。
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