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言葉について考える

最近、Twitterで呟くことがなくなってきた。新しいSNSにこぞって皆登録しているらしいが、ひとつのSNSですら運営できていないので、登録しようと思えない。地元の友人は僕よりもずっと前にタイムラインに現れなくなっている。生活が充実している人はSNSを使わないとよく聞くのだけれど、彼らのプライベートが充実しているのかどうかは知らないし、それは自身の生活には関係ないことである。

もしかしたら、誰かに伝えたいことがなくなってきたのかもしれない。もしくは自分程度が誰かに何かを伝えるなど烏滸がましいと思っている可能性もある。言葉の可能性を信じている。でも、言葉の不確実さもちゃんと知っている。言葉はそれだけでは伝わらない場合が多く、これまでに扱いの難しさを何度も感じてきた。

社会人になってそれなりの年月を過ごし、誰かの上に立つという経験をしてきた。リーダーは損な役回りとよく耳にするが、それが事実かどうかは今のところわかっていないし、損をしていようがもはやどうでもいい。ひとつ確かなのは仕事に対する悩みや人間関係の悩みなどを聞く相談相手となる機会は多くなったことだ。それぞれがそれぞれの悩みを抱えていて、新たな気づきを得たり、時には理解できないような考え方などもある。

でも、こんな若造のアドバイスなど何の値打ちもないと思っている節があって、悩みに対してアドバイスをするのではなく、ただ頷きを繰り返しているだけだった。言葉は時に薬となり、時に刃と化す、相手が何を求めているのあかがわからないし、本人さえもわからないときもある。

言葉で伝えたいことがないのかもしれない。加えてもはや言葉に絶望している可能性もある。呟きの数が減ったのは、他者の承認欲求から解放されたからだろうか。いいねやRT、誰かの反応の数だけ安心できていた夜が確かにあった。反応のなさは誰のせいでもないのに勝手に一喜一憂して、クリティカルな呟きをする必要があると自分を追い込んでいた。でも、それは本来のTwitterの使い方ではない。誰かの役に立ちたい。そんな気持ちばかりが自分を強く突き動かす要因となっていた。

他者の目を気にしてばかりの人生は少し窮屈だった。誰かの役に立とうが、立たまいが、自分の人生を生きることには変わりない。どんな選択も誰かによって選ばされたのではなく、自分で選んだものである。自分の失敗をどれだけ他者のせいにしようとも、他者が救ってくれるわけでもない。呟きが減ったことを気負う必要もなければ、考える時間すらも無駄である。自分の生きたいように生きる。それさえできれば、この窮屈だった世界はきっと生きやすくなるはずだ。

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サトウリョウタ@毎日更新の人
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