物事の終わりを意識することの美しさ
どんなことも終わりがあるから美しい。終わりがないものに美しさを見いだすのは難しいことで、終わりを意識した瞬間に、美しさが露呈する。はじめたら終わる。でも、はじめなきゃ終わらない。物事の美しい側面を見つけるために、僕たちはなにかをはじめるし、なにかを終わらせる。僕が生きている内はきっと世界は終わらない。隕石が衝突したりして、終わるかもしれないだろって。そんなの知るかよ。そん時はそん時だろうよ。
僕が死んでしまったら僕の世界は終わる。それだけは間違いない。終わりのない人生はなくて、終わりがあるから、僕はなにかに一生懸命になれるのだろう。もしも人生が終わらないのならば、きっと生きることに絶望してしまって、なにかをはじめようなんて思えない。ただ時間が過ぎるのを待ち続けるだけの人間に成り下がるだけ。だから、命に終わりがちゃんとあって良かったと心の底から思う。
僕のこの命も世界もいつか枯れ葉のように朽ちていく。なくなった瞬間、すべてがなかったことになるのかもしれない。たとえなかったことにされたとしても、輪廻は転生し続ける。ひとつの物事が終わっても、またなにかの物語がはじまり、誰かの物語の一片を担う役目を補える可能性もある。だから、ちゃんと生きなきゃならないし、後世に、そして、輪廻転成した自分のために、なにかをきちんと残していく。
自分の人生が終われば、春も夏も秋も冬も全部終わってしまう。朝も昼も夜ももうやってこない。人生は一度きりで、同じ時間は2度とやってこない。もしも僕らが不老不死だとして、生きることが終わらないのであれば、その美しさに気づけないのかもしれない。
桜が入り乱れる春の美しさに、夏の朝焼けの美しさに、紅葉が世界を埋め尽くす秋の美しさに、冬の夕日の美しさにも気づけないのかもしれないと考えるとやっぱり少し寂しい。人生はちゃんと終わる。だから物事に美しさを見出せるのだ。そんな当たり前の事実に安堵している自分がいる午後11時。