好きなことで生きていくなんてただの幻想だったよ
朝の6時半に起きる毎日。カーテンを開けて、日光を浴びる。いつもどおり歯を磨いて、朝食を食べて、誰もいない部屋に「いってきます」と声を掛けてから家を後にする。
俺の名前は折原。疲れているからか目の下のクマがひどく目立つ。ちなみに俺は、どこにでもいる社会人1年目のサラリーマンだ。駅まで自転車で駆け抜けるこの時間帯は、いつも同じ人間の顔ばかりを、見ているような気がする。ある人はスーツで、ある人は夜勤明けで家に帰る途中だろうか。
駅に着いて、いつもの駐輪場に自転車を停める。時間に余裕がない日は、いつもの電車に乗るために、駐輪場から駅までダッシュしなければならない。勤務先に足を運ぶだけなのに、なぜここまで全速力にならなければならないといけないのか。
車掌のアナウンスの告知のあと、電車がまもなく発車する。
「駆け込み乗車はおやめください」
俺だって駆け込み乗車なんてしたくない。でも、車掌に注意されるよりも、上司に怒られるほうが厄介なのだ。許せ。
寝ぼけ眼をこすりながら、満員電車に揺られる。出社ラッシュの時間帯は、電車を降りるだけで一苦労だ。「すいません、降ります」と言わなければ、降りられないこの状態をおかしいと思う人は多いはず。
9時に仕事が始業し、18時まで上司に与えられた仕事を淡々とこなす。目の前の仕事をこなしているうちに、もうまもなく12時のランチタイムがやってくる。
今日は時間に余裕がなかったため、お弁当を作れなかった。同僚と上司に連れられ、オフィス街のお店を目指す。だいたいどこの会社も、12時をお昼休みにしている。お昼休みの時間を会社ごとに分ければいいのに、なぜこうも融通が効かないのだろうか。
人気店は行列ができるほど、混んでいるから避けたい。でも、上司が人気店を選んだため、拒否権を行使することなく、俺たちは人気店の行列に並んだ。
そして、俺たちまで順番が回ってくる。美味しいランチと共にやってくる上司の指摘タイム。「くそ。昼休みぐらい楽しい話をしろよ」と思いながら、上司のありがたい話を懸命に聞いているフリをする。
「折原くん、君の仕事は丁寧だけれど、少し時間が掛かりすぎているからもっと効率化したほうがいい」と上司の山田さんが言った。
そんなことは、言われなくてもわかってんだよ。丁寧のほうを、もっと褒めろよ。お前はモチベーションを下げる天才か。人は褒められて伸びるんだよ。そんなこともわからないなんて上司失格だよ。やめちまえ!
本音と建前。いつも言いたいことを言えないままに、上司に流される俺はこのまま一生を終えるのか。そう考えると、じぶんの人生は本当に呆気ないな。
世の中には、じぶんの好きなことを仕事にしている人がたくさんいる。夢見た業界には入れたけれど、俺がやりたい仕事はこれじゃない。理想と現実はいつもちがう。「思ってたのとちがってた」という言葉を考えた人間は、実に妙を得た言葉を考えたものだ。
広告業界で、1番の人材になりたい。でも、実際にやっているのは、誰でもできる雑務ばかりだ。そして、誰でもできる業務で、上司に指摘されている俺は、この世界の主人公ではなかった。これではなんのためにいい大学に行って、就活を頑張って、憧れの業界に入ったのかがわからない。
下積みが必要なのは理解しているし、この下積みが数年後に活きることも理解している。でも、この上司はクソ。俺が仕事で結果を出していたら、こいつをこき使ってやりたいぐらいだ。
業務時間終了の時間になっても、仕事が終わらない。仕事が丁寧すぎるのだろうか。もっと具体的な改善策をくれよ。じぶんの頭で考えて、効率よくやらないとダメってことも十分理解している。でも、答えが用意されているのであれば、答えをあらかじめ与えたほうが成長は速いに決まっているだろう。
あっという間に、20時になった。業務はまだ終わらない。頭を掻きむしっても状況は変わらず、残業ばかりの毎日に嫌気が差す。そして、じぶんの力量不足にもっと嫌気が差している。
「折原くん、あとは俺が巻き取るから今日はもう帰っていいよ」
上司の山田さんから声が掛かる。でも、ここで帰ってしまうのは申し訳ない。俺は与えられた仕事すら終わらせられないのか。上司なら業務時間内に終わる仕事も俺は業務時間内はおろか、残業をしても終わらなかった。
1年目だから仕方ないのかもしれない。俺の理想は取引先企業での営業プレゼンで、ビシッと決め、仕事を獲得している絵を描いていた。でも、現実はどうだ。与えられた仕事すら完璧にこなせず、上司の手を煩わせてしまっている。
「大学を卒業して、憧れの業界に入り、すぐさま活躍する」という俺の理想は、社会人1年目の終わりになっても、叶うどころかスタートラインにすら立てていないってのが現実だ。
でも、こうなることは少し考えてみればわかることだったはずだ。じぶんの力量を知らず、途方に暮れては、どこか遠くへ行ってしまいたくなる。「井の中の蛙、大海を知らず」は、まさに俺のために用意された言葉だ。すぐに活躍できると勘違いしていた大学生の頃のじぶんをぶん殴ってやりたい。
大学内で少し結果を残したからといっても、それはあくまで大学内の話であって、世界はもっと広いのだ。大学内での実績なんて世界規模でみれば、豆粒程度の実績にしかならない。いや、実績がないに等しいと言っても過言ではないだろう。
でも、大学の同期は、ベンチャーに行って、もう営業として立派な活躍をしている。大手企業を相手に、営業で見事案件獲得にも繋がったみたいだ。大学時代にパッとしなかった同期が、もうすでに活躍している。それに比べ、大学でサークルのトップを務めていた俺は、一体なにを燻っているんだ。
残業をしても、与えられた業務が終わらなかったため、上司に任せて、帰路に着く。時間はまもなく21時を迎える。周りを見渡すと、電気がまだ付いているオフィスが、街を照らしていることに気がついた。この時間帯になっても、まだ働いている人がたくさんいるその事実に少しゾッとする。
ビシッと決めたスーツが椅子に座ったせいで、しわくちゃになっている。足下を見ると、革靴が汚れまみれだ。努力の証と言えば、聞こえはいいけれど、実際はケアを怠った証拠に過ぎない。
入社1年目に結果を出している大学の同期と、結果を出せなかった俺。大学の同期の中で、俺たちの評価はまもなく一転するだろう。いや、もう評価の一転は終わっている可能性だってある。
いつもの駅には、疲れた顔がずらりと並ぶ。俺もこんな顔をしているのかな。ああ、このまま一生を終えるなんていやだな。俺も物語の主人公になりたかったよ。
俺は物語の主人公ではなかった。ずっと主人公になる方法ばかり考えているから辛くなる。それならいっそのこと名前も与えられないエキストラになったほうが、楽になれるのかもしれない。
ちょっと待てよ。物語の主人公にはなれなかったのが、一体なんだと言うのだ。街に並ぶあらゆる風景は、いろんな職業の人の努力の結晶だろうが。
電柱を作った人。ビルを建てた人。電車を運転し、毎日疲れ顔を運んでくれている人。毎日食べている食材だって、誰かの努力の結晶だ。誰かの暮らしは誰かの努力の結晶のもと、成り立っているのだ。
俺には俺にしかできないことが、きっとある。社会人1年目はその事実が理解できただけでも、御の字だと思っておこう。たとえ誰かの物語の脇役だったとしても、俺は俺の人生をちゃんと生きたい。
もうまもなく、社会人1年目が終わる。春になれば新卒社員ではなくなり、新たな新卒社員が入社してくる。新たな芽がどんどん入ってくるのは、まだ結果が出ていない俺からすれば、恐怖でしかない。
でも、いつか夢見た憧れの舞台に上がるまでは、希望を捨てたくない。だからこそ与えられた仕事ぐらいは、ちゃんとやり切れる人間になろうと心に誓った。
今よりもっと仕事ができる人間になるために、明日朝一でどうすればもっと効率よくできるかを上司の山田さんに質問しよう。
「山田さん、おはようございます。昨日はご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした!ちなみに昨日の案件なんですけど、山田さんならどうやって対応しましたか?」
1年目でじぶんの力量不足を知った折原は、主人公になる夢をまだ諦めてはいない。
少しだけ夢への階段を登った、社会人2年目の春が、もうまもなく幕を開ける。